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迫害に反対すると同時に、内に向けて探さなければならない(上)


 文/中国大陸の大法弟子 明思

(明慧日本)悪辣な警察が来るとき、今までよく行っていないところが映画の一こま一こまのように目の前に浮かんできました。『転法輪』を一回読み終わるのに何日もかかる。資料を作りながら法を聞いているが、それは法に対して不敬なことである。煉功する時、30分くらい座禅したら、もう足を崩してしまう。定刻に正念を発することをよく逃してしまい、後になっても補わない。もっと稼げるようにと気を使って、真相資料も作っているが、気を緩めてしまう。ネットで真相を伝える時に、まともでない人に会ったら、相手を救うことを口実に、よく曖昧な冗談を言う。携帯電話に変なエロチックなメッセージーが入ってくるなど。自分が精進しないため、瀬戸際にまで追い詰められ、もう旧勢力にすら見下げられているのです。

 ここまで思うと、思わずぞっとして、なんと危ないことだろうと思いました。しかし、同時にすぐ私は大法弟子で、師父の弟子だ、邪悪に試練されるはずがない、自分に不足があっても、大法の中で正に帰する事ができると思いました。私は心の中で師父に向かって、私は間違えた、こんな間違いを犯して、実にとても危ないことだ。これから必ず本当に確実に修めていきますと謝まり、自分の願いはまだ十分に達成できていないが、まだ私が救い済度するのを待っている衆生がたくさんいる。絶対邪悪に負けてはいけないと師父に加持を求めました。すると、私は正念を発しながら、奇跡的に邪悪の目の前から抜け出しました。

 最近、明慧ネットを見たら、毎日同修が強制連行される事件が起こっていると気づきました。法を正す進展が今日に至り、なぜまだ迫害される事件がこんなに多いのでしょうか。迫害が発生したら、我々はどうすべきでしょうか。自分に漏れがあるため、邪悪に隙に付け入られたことを認識すると同時に迫害に反対し、旧勢力の按排を徹底的に否定しなければならないと私は思っています。

 師父は『米国フロリダ州での説法』の中でこのように教示してくださいました。「皆さんに教えますが、現在も残っていて大法と大法弟子を迫害することのできるものは学習者自身の原因です」。だから、我々は無条件に内に向けて探さければなりません。自分の根本的な執着の所在を探し当てると、邪悪も自ら壊滅するのです。

 しかし、今、同修に問題点を指摘する時に、いやで聞こうとしない、更にこれから付き合いを止めると口答えしたりする現象が確かにあるのです。例えば、私は長年修めてきてもう古い弟子になったのに、内にむけて探す事が分からないと思うのかとか、私はこんなに多くの真相資料も作ったし、たくさんの人に「三退」も勧めた。それに対して、あなたは何人を救ったのかとか、私は地元の強調責任者で、昔よく行ったし、皆に褒められているし、問題を指摘されるほど厳重ではないだろうとか、邪悪の迫害が毎日起こっていて、邪悪そのものは瀕死のあがきをして、迫害を止めようとしない、自分には成す術が無い。たくさんの確固たる信念を持っている大法弟子も迫害されたではないかとか、さまざまな考え方を持っていて、内に向けて探そうとしないのです。

 師父は「誰でも何かのことに出会った時いつでも外へ向かって探します。『あなたはなぜわたしにこのようなことをしたのか?』 心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これは全ての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です。いままで修煉しても向上できない、どうやって修煉して向上できるのかと悩んでいる人がいました。誰にしてもトラブルに遭遇する時自分のことについて反省しないことが最大の妨げなのです。自分が苦痛を受け、たいへん不幸な目にあったのに、さらに自ら反省して、自分のどこが間違っていたのかを探す、そこまでできるのは本当に難しいことです。誰かがそこまでできたら、この道、この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません。これは本当のことです」(『シンガポールでの法会における講法』)と教えてくださいました。

 それから、「どのくらい長く修煉したにしても、大法弟子の中でいくら声望があるにしても、気をつけなければきっとそうなります。皆さんに教えますが、修煉がいくら良くできているにも関わらず、常人の心さえあれば、それは魔に利用され得るところです。自分が気をつけなければ、随時に利用されてしまう恐れがあります」(『2002年度ボストン法会での説法』)ともおっしゃいました。

 こうして見れば、自分が自分のことをどう思ったとしても、いくら法を実証することを行ったとしても、無条件に内に向けて捜さなければなりません。本当の向上は法に対しての認識の向上であり、心性を高めて初めて功が伸びるのです。時には、ある同修はとてもよく修めていて、確固たる信念も持っているし、昔正念で迫害を否定したこともあるのに、なぜまた迫害されたのだろうか? そうすれば、私たちも取りあえず避けたほうがいいのではないかと思う事がありますが、実はそれは皆口実で、内に向けて探すことをよく理解していないのです。私たちはこのように思うとき、既に外に向けて探しているのではありませんか。修煉には手本がありません。私たちは誰もが自分なりの正悟の道を歩まなければならない、と師父が教えてくださいました。それにその道は未来に残すものです。

 内に向けて探すことは別に自分がよく修めていない事を意味するのではなく、面子を潰すことでもありません。逆にそれは生命が自分を清らかにし、絶えず向上していく根本的な保証の一つなのです。我々は新宇宙の保護者である以上、思想が法の基準に達せず、そんなに純粋で清らかな程度にまで成就しなくていいと思うのでしょうか?

 実はひどく言えば、修煉者が執着を固持する事は、神に対して罪を犯すことになると思います。私は自分が常人に混同し、旧宇宙の要素や旧勢力に妨害されて理知的ではない、頭がはっきりしていない時の表現を思うと、私はとても師父と合わせる顔がないと思っています。「洪微皆(すべて)是(これ)眼(まなこ)」(『洪吟 二』「大道を行く」)。私たちの一挙手一投足、一言一行は皆記載されているのです。旧勢力が今度法を正すことのために前の地球で一回試験した以上、我々の生存する環境、どんな年齢で法を得るか、一挙手一投足、一言一行に偶然な事があるのでしょうか。旧勢力にいんちきをやられた事があるのではないのでしょうか。だから、思想を法に溶け込ませ、絶えず内に向けて探して初めて、旧勢力の理の束縛から抜け出し、師父の按排した修煉の道を歩み、根本的に旧勢力からの迫害を否定することができるのです。

 (下に続く)

 2007年11月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/10/166236.html