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「心が動じる」ことに対する再認識


 文/ニューヨーク大法弟子

(明慧日本)最近、新唐人ホリデーワンダーの宣伝チラシを西洋人に配る時、「この芸術祭なら、いたるところで宣伝していますから、もう知っています」と大体同じような答えがかえってきます。確かに、ここ何年来同修たちが弛まぬ努力したおかげで、マンハッタンにおいては、殆どの人はもう知っているのです。それなのに、なぜ入場券の売れ行きが今のところやはりこんなにもよくないのでしょうか?よその空間ではニューヨークでの妨害は確かに相対的に大きいでしょうが、法理に照らして考えると、このような説明は成り立たないと思います。

 最近自分の職探しを通して、更にこのことについて深く認識するようになりました。今私の職探しは面接の段階に入りましたが、自分がうっかりしたせいで、提出書類を一部漏らしてしまいました。約1カ月後に気が付いたので、急いで速達で郵送しました。翌日にはもう届くはずなのです。しかし、その後1週間経っても、やはり何の知らせもなかったのです。もう待ちきれないので、ちゃんと資料を提出したのに、なぜなかなか返事が無いのかと電話で詰問しました。そうすると相手は、「順番がありますから・・待っている他の人たちのことを考えずに、あなたの資料を先に処理することはできない」と返事してきたのです。私は直ぐ分かったのですが、相手のことばかり見てしまうと、往々にして「内に向けて探す」ことをおろそかにしてしまいがちです。元々は自分のミスなのに、その資料を補ってから、自分の責任を全うした、相手に要求してもいいと思ってしまい、全体の状況を考えずに、やはり先ず自分のことを優先に考えてしまったのです。このような執着は個人修煉の段階でもう取り除かれているはずなのに、どうして今になってまた再び現れてきたのでしょうか? そこで、私は気が付いたのですが、今私は精進できず、法を正す時期の大法弟子の要求に達していません。人を救うことに対して、私はただお決まりの務めのように見なし、実はそんなに身を入れておらず、法に照らして明晰に理解し、確実に修めていなかったのです。表面では忙しくて、苦労をしているようですが、実は心の中でこれは自分が法を正すことに参与した証拠であり、自分は法を正す進展についていっている、心配しなくてもいいと思い、人を救う心がまだ本当に動いていないのです。

 引き続き、次の試練がやってきました。やっと私の資料が受理されました。ところが、2カ月経っても、面接の知らせが一通も無かったのです。最初の時、私はただ自分の名利心を放下しなければならないと思い、全ては皆それなりの按排があると自分を説得しましたが、心の辛さは消えませんでした。後で分かったのですが、人生で先が見えない時の辛さはこんなにも酷いのに、今法のためにこの世に降りてきて、輪廻転生の中で千万年も救い済度されることを待っている衆生は今師父がいらっしゃって、法を正すことが本当に始まった時、大法とすれ違い、この千載一遇のチャンスを逃してしまったとしたら、彼らの本当の生命の苛立ちと辛さは今の私より何百倍も強いことでしょう。

 それでは、私はどのように理性的に全力を挙げて周りの全ての条件を生かして、それをチケットの販売促進に有効に使ったらよいのでしょうか。家族(同修)と交流して、ちょうど今回の面接をきっかけに、それらの大手会社の管理層の人たちに芸術祭を紹介できるのではないかと思いつきました。私は家族と協力して、クリスマスの挨拶をきっかけに、芸術祭を紹介する手紙を書いて、綺麗なチラシを同封して送ることにしました。西洋人は表面上の文化を大事にするので、一番よい便箋を使って、よい内容でよい包装で出そうとしました。手紙を書く過程で、明らかに昇華を感じました。一回目の下書きは、自分を強調する部分が多すぎて、心を動かす力がないと家族に言われました。二回目になると、神韻芸術団の特色をはっきり説明していないと言われました。三回目の時は、なぜこの芸術祭を薦めたいのかという理由を書いていないと指摘されました。この手紙を書き終わってから、郵便局へ投函に行く時、自分でもエネルギーはとても強大で、心が落ち着いて、感動がこみ上げるのを感じました。最終的に一体どのくらいの人が入場券を買うのかについては、私にはよく分かりません。しかし、この過程の中で、私は心が動かされ、堂々と自分の不足に直面し、そしてそれを直そうとしたのです。またできるだけ自分の色々なよくない観念を放下し、相手の立場に立って、相手の理解できるような方式で芸術祭の素晴らしさと意義を説明して、自分もその過程で神伝文化を更に深く理解できるようになりました。

 現在、毎日のように入場券をどのくらい売ったか、またどのくらい残っているかという内容のメールを受け取っていますが、販売した入場券の数を一つの目的と見なしているようです。しかし、私の理解としては、入場券の販売促進は実は師父が法を正し、衆生を救い済度することに合わせて現れた情勢であり、入場券の販売促進の中には真相を伝えることが含まれており、真相を伝えること自体は目的ではなく、全ての目的は人を救い済度することにあり、それは法を正す時期の大法弟子の責任と意義の所在なのです。入場券の販売促進に関しては、別に売れないから損になると恐れることもないし、自分の面子を保つためや自己を実証するために努力することでもありません。それはちょうど一人の生徒が普段確実に勉強せず、試験の直前に一生懸命頑張っても、やはりいい成績がとれず、いい大学に進学できないと同じなのです。

 今日は職場であっちこっち知り合いを探して、芸術祭を紹介しました。中には教授もいるし、責任者もいますが、以前は準備が不十分で、恐れたり、躊躇したりする心があったため、直接彼らにはっきりと真相を伝えませんでした。今度私は先ず正念を発してから、あなたを救いに来たのだという強大な一念を持って行なうと、とてもよい効果を収めました。チラシを渡すと、直ぐ興味を示して、どうやって入場券を買うのかと聞いてくれたのです。それはよその空間での正念と大法の正の場が作用して、この空間で人が蘇るという表現が現れたと思います。堂々と真相を伝え、人を救うときに、常人も修煉者に制御されるのだと気付きました。私の仕事を積極的に評価してくれる人もいるし、それはちょうど私の心配したことと正反対なのです。だから、別に表面上の形が決定的な作用を果たすのではなく、大法弟子は真の念が生じる時に、その作用がとても巨大だとつくづく感じました。

 だから、「動く」と言うのは、別に表面上の行動、例えば、何軒の店を歩き回ったとか、どのくらいのチラシを配ったとかを指すわけではなく、我々は常に相手を救い済度するという一念を持ち、彼らの分かっている一面に向かって、「目覚めよう。千万年来待ち望んでいるのはこの一刻だ。法輪大法は素晴らしい。直ぐ芸術祭の会場にある自分が着くべき席に行こう」という真の念を持ち、鋼鉄を溶かすような慈悲で対処することを忘れてはいけません。われ関せずという態度を採ったり、自分の観念を放下するのを惜しく思ったり、自分に協力しなければ全体に協力しないといって、対峙してはいけません。本当に衆生を救い済度したいという気持ちを抱いているならば、別にどのくらいの入場券をまだ売っていないといらいらし、最後になって奇跡が起こり、売れてしまうのではないかと憶測し、なぜ全体に協力しないのかと他人を指摘し、どうしても自分の意見を言い張るのではなく、大法によって救われるに違いないと言う堅い信念を抱いて大胆にもこの世に降りてきたのに、このチャンスを逃すと、万古の機縁を失ってしまうかもしれないと衆生のことを心配し、自分の観念や執着心、党文化の要素を自ら取り除き、全体に協力する過程の中で、自分の能力を最大限に発揮するようにすべきです。そして、このようにして初めて、法を正している師を本当に手伝って、世間で行うことができるのだと思います。

 2007年12月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/16/168488.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/12/24/92405.html