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低い次元の思惟に留まらない

(明慧日本)今、大法弟子にとっては最も大事なことは衆生を救い済度することです。そして、真相を伝えることは、法を正す修煉の全体から見れば、三つのことの中で一番難しいことです。なぜこのことが難しいかと言うと、我々は多くの場合には低い次元の生命の思惟角度に立って、この事を行っているからだと思います。

 師父は、常人が事を行うことと神仏が事を行うことの区別について説かれました。常人は意念を使って手足や感覚器官を指示して行うのに対して、修煉者は意念(正念)を使って功能を指示して行うので、具体的なことは功能が作用しているのです。そして、神仏は事をするとき、手足を動かす必要がなく。直接思うだけで最も早く空間でやりとげる(神通を運用する)のです。だから、(人間の空間から見て)一瞬のうちにやり遂げるのです。実は我々大法弟子は正念がとても強い時、思うままに功能を運用することができ、まだ手足を動かしていないのに、そのことを既にやり遂げたと言うことがたくさんあります。(明慧ネット上で、正念が奇跡を顕した報道が多くあります)それは正に、その時の心理状態が神仏の基準に達したことの表れではないでしょうか? 

 真相を伝え、衆生を救い済度しなければならないことを師父より教えていただいてから今まで我々大法弟子は真相を伝えることにずっと励んでおり、たくさんの真相を伝える方式を考え、豊かな経験を積んできました。しかし、真相を伝える方式とこれらの豊かな経験は、正念と功能の作用には替えられません。年内に各地で起こった激化した迫害の虚像の主な原因もここに在るのではないかと思います。つまり、我々は真相を伝える方式と経験が豊かになると同時に、無意識のうちに正念と功能の作用を疎かにしてしまったかもしれません。これはちょうど我々がようやく「マッチ棒」から「西洋医学の精密機器」にまでの発展に従って、知らず知らずのうちに無形の「水薬の黄色の気」を軽視し、その代わりに「西洋医学の設備」を重視してきたことと同じです。

 人間が大法のことを行うという状態から、如何にしてなるべく早く「神への道程を歩んでいる」状態にまで昇華できるかが、なるべく早く迫害を終わらせ、最大限に衆生を救い済度することの鍵だと思います。

 99年7.20に迫害が発生したばかりのころ、私は法を学ぶ時間がまだ浅く、知り合っている同修も少なかったため、一時どうすればいいか(表面上どんな行動を採るべきか)迷ってしまいました。そこで、利用できる全ての時間を法の学習に使い、自分の一つの思いや一つの閃きに対しても厳しく法に照らし、最も純粋で清らかな心理状態を保ち、自分自身の存在そのものが正の作用を果たすように己を律しました。大法は万能であり、自分が純粋で清らかな心理状態を保っていれば、大法はきっとどうすればよいかを指導してくださると固く信じていました。私は利用できる全ての時間を法の学習や煉功に使い、喩え家事をするときでも、法の暗誦をするようにしていました。また一種の機制を形成するように、常に頭に浮かんできた一つの考えや一つのひらめきを法に照らし、全てのよくない心理状態、妄想、邪念、利己心、情などを全部排除するようにしました。このように法を学び、心を修めると、変化はとても速かったのです。この空間での表現としては、心がすぐ静まり、心理状態がとても穏やかで、念力がますます強くなったということです。そして、よその空間での邪悪が近付くと、直ぐ感じられ、注意力を集中すると、その邪悪をすぐそれによって解体したように感じていました。よその空間での表現としては、毎日元神が身体を離れ、よその空間で意志の力と念力で邪悪を除くと言うことでした。その時、まだ正念を発することと功能を運用すること、あるいは、邪悪を根絶することについて師父より教えていただいていなかったのですが、確実にずっと無意識のうちによその空間で功能を使って邪悪を取り除いているように感じていました。よその空間から戻ってくる時、自分は密度のとても高い不規則に散らされたエネルギー球のようで、ミクロの体の部分の至る所が沸騰していて、殆ど肉体の存在を感じられませんでした(いつも暫く経ってからようやく落ち着きました)。エネルギーに貫かれた体の回りの物もみなエネルギーに満ちています。例えば、目付きもエネルギーに満ちており、壁を見ると、壁は透き通った色とりどりの小波がたち、電灯を吊り下げる紐を見ると、紐が小刻みに揺れ、天井を見ると、天井で黄金色の光が幻に変わり、透き通った法輪が隠れたり現れたりしていたのです。

 このような状態が半年あまり続くと(この空間での表現としては、邪悪に妨害されたこともなければ、個人修煉の関も殆ど出会った事はない)、北京へ法を実証しに行かなければならないことが分かるようになりました。大法を守るためなら、拘禁されても恐れないという正しくない一念があり、それをはっきり見分けて、排除することができなかったため、1カ月不法に拘禁されることになりました。その間、留置場でたくさんの容疑者に会いましたが、大法が素晴らしいこと、迫害されたことを教えると(その時どうやって真相を伝えたらいいかまだ分からなかったため、いつも直接に大法が素晴らしいとそのまま教えた)何人かの麻薬常用者以外は、皆直ぐ信じたのです。また皆はすぐ福の報いを受けたのです。その後のある日、町でその時の1人とばったり会いましたが、彼女は私にこう言ったのです。(彼女は、その中でも大法に対する態度が最も良い人でした。彼女は、殺人を犯して数年の刑を宣告されていましたが、ほどなく無罪で釈放された)、「だれそれは、どれだけ減刑された・・だれそれは、判決が覆り執行猶予となった等々・・・」。私が思うに、彼女らの減刑の度合いはちょうどその時の大法に対する態度と正比例していたのです。

 以上の体験からこういうことを言いたいのですが、つまり修煉者の最大の力(正念で邪悪を根絶することと真相をはっきり伝えることの効果も含めて)は、この世での技能や方式(これらは補助的である)によって現われるのではなく、それは大法を信じることによって生まれ、普段の一つの考えや一つの閃きに対しても確実に修めることによって積み上げられる、如何なる常人も成し遂げることのできない確固たる念力(正念)なのです。念力(正念)が強いほど、邪悪を解体する時間もそれなりに短く、それは反比例しているのです。もし邪悪を解体するのに随分長い時間がかかるならば、それは我々の念力(正念)がまだそれほど強くなく、人間が大法のことを行う状態に陥り、低い次元の思惟に留まるからだと思います。

 当初の経験を振り返ってみれば、別に自分が法に対する認識がとても深いわけでもなければ、豊かな技能や経験を持っているわけでもなく、それは一つの考えや一つのひらめきを確実に修め、もっとも純粋で清らかな心理状態で衆生に対処し、大法が万能であると固く信じる心を持っていたため、大法の果ての無い威力が現れたのです。仏法は果ての無いものです。

 我々は大法の威力を感じられないことがよくありますが、それは別に大法の威力が現れないのではなく、大体は自分を確実に修めることが足りないからです。この世で人の用事をするとき、いつも知らず知らずの内に決まった考え方ややり方を形成して、それを変えようとせず、変える必要がないと思いがちです。しかし、法を正す修煉の中では、我々は絶えず昇華しなければならず、真相を伝え、衆生を救い済度することにおいて、最終的にやはり神仏が事をするという状態(正念や功能を使って、最も短い間に完成する)に達しなければなりません。今の我々の状態からなるべく早く神仏が事をするという状態までに昇華するという過程は即ち、我々が更に効率よく衆生を救い済度する過程であり、我々が全体として圓満成就に向かう過程でもあります。

 2007年12月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/16/168465.html