日本明慧
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自我を放下し、漏れのない全体を形成する


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)プリンターが壊れてしまい、長い間稼動しませんでした。私は、再び師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を拝聴し、繰り返し法を学び、心を修め、やっと悟りました。師父は、以前から教えてくださっていたのです。自己の執着を徹底的に放下し、全体を形成することで、初めて法を正し、更に多くの衆生を救い済度することもでき、奇跡は現れてくるのです。

 今までの私は、修煉を「自己」という枠の中で行っていたのです。それは自分の行っていることは、法を学び、心を修めることよりも、「自己」を重要視していたということです。毎日あくせくとしている自分は、よく精進している、チラシが多いと更に多くの衆生を救えると勘違いして、心性を修めることを疎かにしていました。

 同修たちの要求より、自分の修煉を大事に思っていました。同修のよくない状態に対して、慈悲心から対処するのではなく、それは本人が修めることであり、私はただ「善を勧める」という、自分の考え方だけを話した後は、自分とは関係がないように思っていたのです。たとえ状態のよくない同修と切磋琢磨する機会があっても、私の中の真念が動かず、「正の要素に責任を負う」という責任感が欠けていたのです。 

 同修の要求より、自分の好き嫌いの方を大事に思っていました。自分の気に入る資料だけを印刷し、気に入らないと、印刷しませんでした。この行為は、大法のために責任を負うと勘違いしていたのです。カラーのチラシを印刷することに執着し、プリンターのカラーインクをきらした時、白黒で印刷することにまで思いつかず、長いこと時間を無駄にしてしまいました。私がプリンターの機能を十分に分かっていない為のように見えますが、実は自我への執着によるためだったのです。

 全体を圓容することより、自分の悟りの方を大事に思っていました。同修たちが横断幕をかけることを決め、全員で協力する必要があったとき、私の中に、自己顕示欲、闘争心が現れ、警察が激怒するので、それより資料を配ったほうが、真相を分からせやすいと、このやり方に反対し、協力しようとせず、また、同修たちに対して正念も発しませんでした。

 私は、全体の能力より個人の能力の方を大事に思っていました。黙々と自分のやるべきことを行えば、よく修めたと思っていました。しかし、この考えはまさに「自我に執着する」現れなのです。個人としてよく修めたとしても、それは個人であって、全体を形成することができなければ、邪悪が存在し妨害する口実となるのです。師父は、法を正されていますが、我々大法弟子は、将来、異なる宇宙の「王」として成就することにより、天体の一部分を受け持つことになるのです。すべての大法弟子、一人一人が一面につながり、「脈もなければつぼもない」境地にまで達し、初めて法の威力が最大限に現れ、正真正銘の「漏れのない」境地にまで成就したと言えます。すべての邪悪は、身を隠すところがありません。

 自らを反省した時、(明慧週刊『神韻芸術祭』特集号)が発売されました。それを読んで、ニューヨークの入場券販売促進において、我々、大法弟子が「個人修煉」の殻を抜け出し、徹底的に自我を放下し、全体を形成するように、認識すべきだと思っています。

 私(し)は旧宇宙の生命の根本的な本性で、高い次元から見れば、「個人修煉」とは他ならぬ私(し)なのです。法を正す修煉の中で、もし「自我」に執着すれば、それはやはり「個人修煉」の殻から抜け出しておらず、同じく私(し)の現れであり、新宇宙の基準に達することはできないのです。

 法を正す中で、我々が多くの事を行えば行うほど、強い自我への執着、例えば、経験、能力、認識、段取り、習慣など形成しがちですが、とても残念なことだと思っています。法を正すためには、勇気が必要です。「自我への執着」は、初期において色々な妨害にも影響されることもなく、大法への信念を固めるには多少のプラスになったかもしれません。しかし、更に高い境地にまで修めるためには、全ての執着を徹底的に放下しなければなりません。

 法がこの世を正し、人々は衆生済度を待ち望んでいます。同修の皆さん、徹底的に「自我」を放下しましょう! 我々、全体が確固たる金剛不動を形成すれば、邪悪を徹底的に取り除くことができます。法の正しい真相がわかり、多くの衆生も最大限に救い済度されるのです。

 2007年12月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/20/168682.html