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師父のお話を引用することに関して


 文/中国北京大法弟子

(明慧日本)大法弟子が、論議する時や事情を説明する時、師父のお話を引用しているのを我々の間でよく見かけます。その中に師父のお話を引用することによって、修煉を通して自分の悟ったことを適切に表し、他の同修に対しても促進する作用を果たすこともあれば、師父のお話を盾にとって、自分の執着を隠そうとすることもあります。私は自分の教訓から、次のいくつかの表現があると分かりました。同修の発言によって自分の法に符合しない表現が暴き出されようとするとき、私は師父のお話を引用して、その同修と違う意見を述べたり、或いは違う角度からこの事柄を見なすようなことを言ったり、同修の発言を止めたり、また話題をそらしたりして、自分の執着心を隠そうとすることがあります。

 そのほか、他の同修が事情を説明したり、自分の悟ったことを話したりするとき、別に反対すると言うわけではありませんが、相手の話を落ち着いて最後まで聞く習慣がなく、いつも口を挟んでしまい、師父のお話を引用し、更に相手の述べた事に関して師父のお話をそのまま復唱し、自分が他の同修より正しく認識しているように顕示しようとしているのです。しかし、相手の話を最後まで聞かないと、相手が話したいことを本当に理解することは出来ません。それに、修煉者は自分の修煉と結びつけた上での会得、特に関を乗り越えての感想は法に対して身に沁みて感じ取ったものであり、それは法の威力を真実に表したもので、周りの同修に対しても、積極的な促進作用を果たしているのです。

 また実際のことやプロジェクトについて論議する時も同じ問題があるのです。よく師父のお話を引用しては、自分が法をよく把握していることを表そうとするのです。このような時は、無駄な空論をすることが多く、問題の本質をいつも避けてしまい、それによって、論議がうやむやに終わってしまうのです。

 修煉は心を修めることこそ確実なことであり、表面上のことは何も説明できません。師父のお話を引用するような、大法弟子にとって神聖なことでさえも修煉者の執着心を隠したりすることがあり得るのです。内に向かって自分の心を修めることのほかに、真実で有意義なことがあるでしょうか? これほど偉大で神聖な大法に対して、純粋で清らかに対処するのではなく、また無意識的にそれを盾にとって自分の執着を隠そうとするなど、自分の心はなんと汚く怖いことでしょう。

 今、この心を暴きだして、この方面の認識を強め、これからこのような間違いを犯すことのないように、正真正銘に内に向かって修めていきたいと思います。

 同修の皆さんに少しでもお役に立てばありがたいと思っております。

 2008年1月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/11/169903.html