日本明慧
■印刷版   

同修の間の縁にも執着してはならない


 文/中国大陸大法弟子・悟果

(明慧日本)今日、何気なく正見ネットでの同修の文章で「天上で縁を結ぶー生命の始まり」を見かけました。その前にも同修の書いた輪廻転生に関する物語や同修との縁を回想した文章を次々と読んだことがあります。正直に言いますと、このような文章を読むたびにいつも心配しているのです。我々の修煉の環境に責任を負うため、ここで自分の考えを述べて、同修の皆さんと切磋琢磨したいと思います。

 1999年7月、北京へ陳情に行ったころ、北京である法を学習するグループの同修と付き合いが多かったのですが、その時、一部の同修が「前世の縁」に執着しているのを見て私は驚きました。彼らの中では自分は、岳飛の子孫だと思い出した人がおり、また相次いで他の「兄弟姉妹」を見つけたのです。このこと自体については深く言いたくはありませんが、1999年7月は大法弟子にとって特別な時期で、命をかけて天安門へ法を守りに行っている同修と比べて、ここにいる同修はお互いに前世の間柄で呼び合い、同修への「情」に浸っているのです。私はその差の大きさを強く感じました。

 私は生まれつき超能力を持っている弟子ですが、修煉中よく自分と周りの人、そして同修との縁の源がよく分かっているのです。しかし、それらのものがそんなに重要ではなく、大事なのは我々と大法との「縁」、そして、人を救い済度する時の衆生との「縁」だと思っています。だから、私はめったに同修に前世の縁を話すこともなく、大法を修めることと比べて、それらのものは取るに足らないと思っています。

 妻は超能力を閉じたまま修める方ですが、我々夫婦の縁も含めて話す必要が無いと思っています。つまり、修煉者として、今の段階で見えたものは必ずしも真実のものとは限らず、たとえある次元での真実のことであっても、それもまたすべての真相ではないからです。同修に精進させることができるのは大法であり、他のものは、なるべく交えないほうがいいのです。まして、この世で師に手伝い、法を正すという同修の縁と比べて、歴史上の縁は全然比べ物にはならないのではありませんか?

 師に手伝い、法を正し、また、衆生を救い済度するこの大事な時に、私たちはこれらのことに余計な気を使ってはいけないのです。このような文章は常人に見せるためではなく、世の人々を救い済度するために補助的な作用も果たすことはできず、ただ同修に読ませようとするなら、それを書く必要がないと思います。特に文章の中で、この人物はだれそれの同修であるという書き方を避けてほしいのです。法を正すこの時期に当たり、このような文章を書くと、同修の間で「情」への執着心を引き起こしやすく、同修との純粋な関係の中で好奇心や歓喜心を交えてしまう恐れがあるのです。

 ですから、我々が文章を書くときには、読む人のことをよく考えなければなりません。もし常人に見せようと思うなら、それは、別に構わないでしょう。しかし、同修に見せようと思うならば、その必要があるかどうか、人心の起伏を引き起こす可能性があるかどうか、我々の修煉環境にプラスになるかどうかなどを慎重に考えなければなりません。

 以上、同修と少しでも多く交流したいのですが、次元が限られた認識ですので、不適当なところがありましたら、慈悲なる御指摘をお願いします。

 2008年1月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/17/170459.html