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常人の観念を放下し、未来への道を正しく歩もう


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)最近大陸各地から、同修が迫害されたニュースを絶えず耳にして、痛々しい思いがすると同時に「法を正すことが最後に至ってきたのに、なぜこんなにも多くの同修がまだ迫害されているのか」と考えてしまいました。それらの同修の心性に問題があるとは言えません。と言うのは、我々は一つの全体であり、彼らのことはつまり我々のことだからです。

 自分と一部の同修の心理状態をよく観察すると、我々がよく常人の認識に妨害されていることに気が付きました。つまり、我々が物事を見る時にいつも知らない内に常人の思惟方法に陥ってしまい、例えば、何かの出来事に遭ったら、我々はよく「我々は如何に解決すべきか、我々はどのように防止すべきか」とその事柄自体に陥ってしまい、そこから抜け出し、法に則って自分の心性から原因を探さないのです。

 例えば、一部の同修は日ごろ確固たる意志を持っているようで、よく真相を伝えていますが、心の深いところに、万一捕まえられたらどうしようとか、悪辣な警察が無茶をしたらどうしようとか、今政府も理不尽なことをしているから、自分のようなちっぽけな百姓が政府に対抗できるのかとかいうような考えが潜んでいるのです。このような考えは日ごろ「抑えられて」いますが、法理上はっきりと認識していないため、いざ強制連行されたら、もう抑えきれず、人の観念や認識がどんどんひっくり返って、無意識のうちに邪悪の迫害を認め、それにより迫害されることになってしまったのです。

 ここでこの問題について、自分の考えを述べたいと思いますが、法に符合しないところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 まず、邪悪は思うようにやれるのでしょうか? 或いは、強制的にこの世の政権を利用して我々を迫害することが出来るのでしょうか? それはもちろん出来ないのです。多くの同修は自分の安全にあまり「保障」がないとか、「法と師に対して堅く信じていない」と思っているようですが、私はそのように思っていません。「師と法を固く信じる」ことは理性的な認識に基づいた上でのものであり、即ち、法に則ってはっきりとした認識を持っているから自然にやり遂げられることであり、別に無理にやって出来ることでもなければ、人の「情け」が作用した上での非理性的な行動でもないのです。

 皆さん、よく考えてみてください。宇宙の特性は何でしょうか?それは「真・善・忍」ではないでしょうか。宇宙の大法はすべての次元を貫いており、それは勿論常人の次元も含まれているのです。大法を迫害する邪悪も当初法によって作り上げられたのではありませんか? だから、それらは皆大法によって制約されているのです。大法は公平なもので、別に邪悪が思うままに振舞うと言うわけではありません。大法はただ正で善なる生命を制約しているだけではなく、負で邪な生命をも制約しているのです。それなら、大法弟子はかえって法に則ってそれらを制することが出来るのではありませんか?

 邪悪が天理に背離する時、我々も同じように大法の法理に基づいてそれらを厳粛に処理し、取り除くことが出来るのです。つまりどの生命にとっても、大法に基づいた上での行動なら許されるので、別に自分が好き勝手に何か出来るわけではないのです。師父は「すべてのものにその根源があります」(『転法輪』)とおっしゃいました。そうすると、常人の次元で発生したすべてのことはもちろん皆偶然なことではありません。この迫害が旧勢力により起こされたとはいえ、逆にもし我々が皆絶対的に正しく行い、完全に法に則っているならば、この迫害も起こるわけがないのです。

 師父は『善を説く』の中で「もし、ある民族が本当に善良であるならば、業力は必ず小さく、戦争も絶対起こり得ないのだ。なぜならば、大法の原則が許さず、宇宙の特性が一切を制約しているからである」とおっしゃいました。

 この経文から私は悟ったのですが、もし我々が本当に正しく行えば、大法の原則から考えると、迫害の発生も許されないのです。迫害の存在は我々の法理上での認識がまだはっきりしていないこと、完全になっていないことと関係しているのであり、その上、人間社会で積んできたいわゆる「経験」に妨害されたため、「どうしようもない」考えが生じるようになり、別の形で迫害を認めることになってしまったのです。

 師父は「煉功者としてあなたがいつも病気のことが頭から離れなければ、それは、求めること、病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます。修煉者としては心性が高くなければなりません。いつも病気ではないかと怯える必要はありません。病気を恐れるのも執着心で、同じように修煉者に面倒なことをもたらします」(『転法輪』)とおっしゃったことがありますが、同修の皆さん、このような無意識の恐れは実は別の形での「求めること」になったことを考えたことがあるでしょうか。自分の「求めて」きた迫害である以上、誰がかまうことが出来るのでしょうか。

 師父はまた「われわれ宇宙には、自分の追求しているもの、欲しがっているものについては、他人はふつう干渉することができないという理がある」(『転法輪』)ともおっしゃいました。宇宙の中にはこの法理があるので、我々の心が正しくない時、特に法理上での認識がはっきりしていない時、邪悪に隙に乗じられやすいのです。

 しかし、別の角度から考えると、それらには本当に隙に付け入る「資格」があるのでしょうか。我々は師父の弟子であり、修煉の道は師父が按排してくださったのであり、他の生命には我々が良く修めているかどうかを干渉する資格があるのでしょうか。

 もちろん、我々は自分を厳しく律しなければなりません。しかし、それは別に他の生命に「試煉」されること、「不足」を指摘されることを許すわけではありません。根本的に言うと、我々の修煉は自分に責任を負うことであり、別に邪悪のために修めるのではないのです。

 それに、我々の修煉する過程できっと執着が現れてくるものであり、もしすべての執着を全部放下したとしたら、それも円満成就したのではありませんか。我々が目下の次元での法の要求に達すれば十分であり、それも別にまだ「漏れがある」ことから迫害されてもそれなりの理屈があるというのではないのです。新たに出てくる執着を取り除き、更に高い次元へ昇華するのは修煉上で次の一歩の要求なのです。

 それらの同修が迫害されたのは法理上での認識の不足と関わっていると思うので、自分の会得を書いたのです。同修の皆さんとともに切磋琢磨し、更に法理上での認識をはっきりさせ、迫害を減らし、最後の道程を更に正しく、更に確実に歩んでいきたいのです。

 以上はこの段階での会得ですが、正しくないところがありましたら、同修の皆さんに指摘していただきたいのです。

 2008年1月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/16/170397.html