天上の佛はなぜ幸福で自由自在なのか
(明慧日本)師父は『転法輪二』(大嶼山での説法)の中で次のように説法なさいました。「佛には苦を嘗めるということがありません。天上の佛には苦がなく全て楽しいこと、幸せなことばかりで、欲しいものは何でもあり、自由自在です」。
私はかつてこの段落の説法については、天上の佛は非常に良いところで生活しているのだ、非常に心地よいところなのだと理解していました。先日、私は突然この説法について、新たな理解をもつようになりました。なぜ、佛は自由自在なのか、毎日良いこと、幸せしかないのでしょうか? 私の今の理解では、一つの原因としては、天上の佛は他人が良くなったことで、他人の良いことに対して喜びを感じているため、必然的にうれしいと感じることも多くなります。天上の佛には嫉妬心がなく、誰を見ても非常に理解しあえ、相手のために喜んであげることができるため、不平不満と思うこともなくなるため、うれしいことも多くなります。もしこの境地が無ければ、たとえ佛になったとしても、嫉妬心のため佛との間に悶着を起こすことになるかもしれないので、天上に上っていくことができないのです。
例えば、以前皆さんがどの重要な項目に力を注いできたとか、たくさんの時間をかけて行い、修煉においても向上したと聞くと、私はかえって自分だけが取り残された、早く追いつかなければと感じるようになり、ある種の圧力と切迫感を抱くようになりました。なぜ最初に他人の修煉における向上と衆生が救われたことについて喜ばずに、自分の成就と得失を先に考えてしまったのでしょうか?
もし、他人の良いことについて、一緒に喜んであげることができれば、たとえ私たちが自分の地区の修煉者の中でも、毎日うれしいことばかりと感じるでしょう。同修がたくさんの法を実証することを行ったとか、関を乗り越えたとか、同修が真相を伝える中で新たな収穫があったとか、家庭の関係が良くなったとか、仕事を見つけたとか、経済的に余裕を持つようになったとか、いずれも私たちにとって一緒に喜ぶべきことばかりではありませんか? 本当に毎日うれしいことばかりで、幸せなことばかりではありませんか。
2008年1月28日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/25/171032.html)
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