日本明慧
■印刷版   

法を師とすれば、デマは自ら滅びる(一)


 文/米国大法弟子

(明慧日本)2008年1月18日に法輪大法学会のお知らせ「虚言を広める環境を与えず、大法弟子が行うべきことをしっかり行いましょう」が明慧ネットに掲載されました。一部の修煉者は自我への執着などの強い常人の心に動かされて、明慧ネットや大法学会に抵触し、いまだに文章の中で指摘された邪悪なBBS(書き込み電子掲示板)に追随し、一歩一歩、旧勢力の仕掛けた壊滅の罠に入り込み、他人を台無しにすると同時に自分も台無しになり、本当に痛々しいことです。

 確実に法を学んでいる大法弟子にとっては、ネットの堕落者らの表現と邪な説は元々反論するに値しないのです。しかし、まだはっきりしていない同修を救うため、そして、真相の分からない新しい修煉者が騙されないように、ネットの堕落者はいったい何を仕掛けたのかをここで暴露したいと思います。

 これらのネットの堕落者には大体次のいくつかの表れがあります。一、明慧ネットを貶す。二、『九評』を貶す。三、大法学会を貶す。四、今手元にあるバージョンの『転法輪』を読ませないように修煉者を煽る。そして、字の訂正に抵触する。五、唆して、明慧ネットと他の大法弟子の運営するマスコミ機関との間柄を裂くことです。

 実は、近年来、師父が海外で説法される時、幾度も法を正すことの中での明慧ネット、大法学会、『九評』と神韻祝賀祭の果たした作用について認めておられるのです。そして、法を伝えられてから今日まで、師父はずっと法を多く学ぶようにと諄々と説いておられるのです。大法弟子の手元にある『転法輪』のバージョンが正しくないと(それらの堕落者は本当の大法の書籍が今日になって初めて「公布」されたと言っている)、全然法を学ぶ事ができなくなり、そうなると、如何にして法を多く学ぶことをやり遂げるのでしょうか。

 後でこのことについての説法を引用しますが、これらの説法は皆、師父が海外の法会で公然とおっしゃったもので、現場で直接それを聞いた同修の数は何千人にも上ると思います。海外の修煉者にとっては、たとえ明慧ネットや大法学会を信用しなくても、現場にいれば、それらの説法は皆全部聞いたことがあるのです。もし理性的に分析して、内に向けて探すようにすれば、それらの堕落者のデマに惑わされることはないと思います。よく修めていきたいという願望は間違いではありません。しかし、それを達成するためには、心性を修煉する以外に別の方法はありません。師父は『転法輪』の最初におっしゃいましたが、「皆さんに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」。

 師父は大陸での早期の説法の中でスデに強調されましたが、「我々が善し悪しを図る唯一の基準は人の心性の高さを見ることで、大法を基準に、心性の高さで修煉の善し悪しを図るのです」(『転法輪法解』「延吉での説法と解答」)もし常人の中での知識(伝統文化をも含めて)や超能力、天目、「自分が高く悟る」ことに執着すれば、大法から外れることになってしまうのです。もしこのような執着があれば、旧勢力はこれを口実に隙に付け入り、いわゆる常人の腕前や超能力、口の達者な人を操って「試練」し、邪な道に入らせるのです。

 以上並べた堕落者の行いは、正に中共邪党が失敗を繰り返しながらも断念せず仕掛けようとすることなのです。このことから見れば、それらの堕落者には実は険悪な企みがあるのではないのでしょうか。

 堕落者らが明慧ネットを貶す主な目的は、明慧ネットで発表された師父の新しい経文と大法弟子の体験談に抵触することです。盲目的にそれらに従ってしまう人は師父の新しい経文、各地の大法弟子の交流文章を読まなくなり、それらの仕掛けた罠に落ち込んでしまうのです。それらの堕落者は『九評』と神韻芸術祭の公演を貶すことによって、法を正す時期に世界各地の大法弟子が法を実証し、衆生を救い済度することを否定するのです。それもちょうどそれらの追随者のうぬぼれた心理、すなわち他の人のやり方は皆間違っており、自分だけが「頭がよくて」「高く悟っている」に符合し、法を実証することに参与しないそれらの人の口実にもなっているのです。

 師父が法を正される目的は、宇宙のすべての衆生を救い済度しようとすることです。もしそれらの堕落者の撒き散らしたデマのように、それらの「頭のいい」「才能のある」(特に伝統文化の「分かる」)人だけが大法の奥義を悟れるなら、農民の大法弟子、西洋人の大法弟子、学力の低い大法弟子はどうしましょう。それでは衆生を普く済度すると言えるのでしょうか。師父は「「大法無辺」という言葉があり、どこまで修煉できるかは、あくまでもあなたの心の修煉次第で、忍耐力と苦しみに耐える力にかかっています」とおっしゃいました。法輪大法は本当に衆生を普く救い済度するもので、歴史上の他の法門との違いは学力や知識の如何に関わらず、修めようとするなら誰でも大法を修められるのです。「三字の真言 理(明)白言(葉)明らか 」(『洪吟 ニ』「大法行」)本当に心性を高め、修煉しようとするなら、師父の法身は知恵を開いてくださり、大法の法理を分からせるのです。そして、真に修める大法弟子は皆このように確実に修めてきたのです。法をよく学ばず、確実に修めず、ただ「高く悟る」ことをひたすら求めようとするならば、これこそ危険なことなのです。

 (ニ)に続く。

 2008年2月1日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/28/171279.html