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大法の基点に立ち、法を正す基点に立つ


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)1999年7.20中国共産党が大法を迫害して以来、私は一部の問題に対して、ずっとはっきり悟っていなくて、どうすればいいか迷っていたのです。そして、周りの同修も多くの問題に対する理解が大きく食い違っていることを目にしました。それは1999年以前の修煉とはずいぶん違うのです。あの時、自分の出会った問題、そして同修の出会った問題に対して、大体大法から答えを見つける事ができました。しかし、1999年以降になると、邪悪の迫害に関して自分や周りの同修の理解は随分違うのです。

 今私は分かったのですが、1999年以前に自分と同修たちと同じ問題に対する認識が違うのは異なる次元から法を理解しているからであり、それは別に無理矢理一致させる必要もなく、次元が高まるに従って、これらの問題もだんだん解決できるのです。しかし、1999年以降になると、邪悪の大法への迫害に対する認識が特にそうですが、それは次元が違うことから生じた認識の食い違いではなく、実は基点の問題に関わっており、別に次元が高まるに従って解決できる問題ではありません。言い換えれば、基点を正しく置くことができなければ、とても次元を高めるどころではありません。

 ここ8年来、邪悪が大法を迫害するという問題に関して、私は随分紆余曲折した認識過程を経験しました。最初のころ、それは自分に業力や漏れがあることからもたらされた問題で、修煉し苦しみに耐え、業力を消去して初めて解決できるのであり、そのためいくら迫害されても耐えていかなければならないと認識していました。このような考えを持っていたため、真相を伝えることにしても、邪悪を暴露することにしても、私は皆消極的で受動的で、半信半疑でやっていたのです。つまり、師父はこのように要求されたし、周りの同修も皆このようにやっていたから、自分もこのように行おうと思い、法理上での認識がぼんやりしていたのです。私の回りに、未だにこのような考えを持っている同修がやはりまだかなり多いようです。

 このような考えを持っていたため、私は邪悪に隙に付け入られ、何回も強制連行されたり実刑を下されたりして、ずっとひどく迫害されていたのです。自分の修煉状態を維持するのも難しく、とても師に手伝い、法を正し、衆生を救い済度する余裕はありませんでした。

 絶えず法を学ぶに従って、邪悪に対する見方も次第に変わるようになりました。特に、師父の新しい説法を繰り返し学ぶことを通して、私はやっと分かったのです。大法はすべてを作り上げる根本であり、如何なる生命も疑ったり判定したりする資格は持っていません。新しい宇宙大穹は皆大法によって作り上げられるのであり、大法がなければ、このすべてもなく、今度の法を正す事がなければ、古い宇宙の生命には未来もないのです。大法こそ新しい宇宙に入る希望とチャンスを古い宇宙のすべての衆生に与えたのです。つまり、大法はすべての根本であり、法を正すことは宇宙での一番重要なこと、宇宙の歴史が今日まで発展してきた中で唯一有意義なことなのです。このすべてに関しては、もし法を正すことを抜きにして論議すれば、全然意味のないことなのです。

 無私無我でなおかつ他人を先に、自分を後にするという、そういう生命になるべきだということを大法によって教えられました。それでは、如何にして、我々は完全に他人のためにという高尚な生命にまでなることができるのでしょうか? 大法はすべての根本で、大法がなければ、宇宙と衆生もないのであれば、いかなることでも大法の立場に立って考えるべきではないでしょうか? 法を正すことは古い宇宙の衆生を救い済度するに当たって、唯一有意義なことであり、古い宇宙の無量の衆生が救われるかどうか、未来があるかどうかという問題に関わる以上、我々はいたるところで法を正す立場に立って考えるべきではないのでしょうか? 我々は大法、法を正すことを最高、最優先の位置に置き、どんなことでも大法、法を正す基点に立って、考えるべきではないのでしょうか?

 私はようやく分かったのです。これは所謂基点の問題、根元の問題なのです。

 例えば、昔、私は「邪悪の迫害は我々の修煉と向上にとってはためになる」という考えを持っていました。確かに邪悪の迫害は業の消去や心性の向上に対して助けになります。しかし、これは個人修煉の立場での考え方であり、目下法を正すことは古い宇宙の衆生が救われるかどうかに関わり、それは遥かに個人修煉や果位、個人の損得を上回ることなのです。もし我々が個人修煉の立場に立って、邪悪が法を正すことに対する妨害や迫害に対処すれば、それは個人の損得に拘り、他人のために考えていないのではありませんか?

 邪悪を取り除くのは慈悲でない、善でないのではないかという見方がありますが、実は大法の「真・善・忍」は個人修煉上の慈悲や善良で量ることではなく、大法には基準があるのです。大法には慈悲と威厳が共にあり、大法を正す立場に立てば、それは遥かに個人の慈悲や思いやりを上回るのです。というのは、大法がなければ、宇宙のすべての生命もなく、法を正す事を順調にやり遂げる事ができなければ、古い宇宙のすべての衆生も未来に入る見込みがないのです。こういう立場から見れば、大法を破壊し、法を正すことを妨害するほど大きい罪はないのではありませんか? このような生命を取り除くのは当たり前のことではありませんか?

 自分のことを反省してみれば、実は基点にまつわる問題をはっきり認識できなかったのは正に「自己」という範囲に留まって認識していたからだとつくづく感じました。「私(し)」の範囲を抜け出さなければ、大法が限りなく殊勝であり、威厳があることも見えないし、法を正すことの重大な意味も分からないのです。もし、自我を放下すれば、大法に対して、この上ない崇敬の念が生まれ、法を正すことも正しく認識するようになるのです。こういう意味では、個人の観念や考え、好き嫌いなどはとても取るに足らないように思うでしょう。

 個人の立場に立てば、自然にすべての迫害を個人の修煉と向上への試煉と思い込んでしまい、それに対して、もし法を正す立場に立てば、それは法を正すことへの深刻な妨害だと分かるはずです。旧勢力は所謂「試煉」を口実にこれらのことを仕出かしたのです。しかし、法を正す修煉者としては、我々は旧勢力の立場に立つのではなく、大法の立場、法を正すことの立場、師父の立場に立ってこのすべてを見なければなりません。そうすると、この迫害は師父が法を正されることへの最も深刻な妨害だということは一目瞭然でしょう。

 大法弟子としては、もし師父の立場に立って見るようにしなければ、まだ師父の弟子と言えるのでしょうか?

 今邪悪はまだ存在していますが、つまるところ、それは我々大法弟子がその存在を「許した」からです。もし我々が心の底からその存在を許さないという一念を発すれば、それも存在するわけはないのです。つまり、我々は大法を修めており、そして、大法は「邪を鎮め、乱を滅し、圓容して、不敗の法力があります」(『精進要旨』定論)

 したがって、今一番の問題は我々が能力を持っているかどうかの問題ではなく、それを正しく認識できるどうかの問題であり、大法弟子全体が正しく認識できるかどうかの問題なのです。もし我々皆が正しい基点に立てば、すべての邪悪が壊滅されるに違いありません。

 大法はこの上なく威厳があり殊勝です。法を正すことは宇宙で最も意義のあることで、大法弟子は異なる次元で正々堂々として最も素晴らしい存在なのです。大法は迫害を認めず、師父も迫害を認められないのに、我々が迫害を認めて、迫害に「メリット」があると考えていいのでしょうか? そうすれば、それは大法の反対側に立つことになるのではありませんか? 師父の反対側に立ったのではありませんか? それは基点の問題なのではありませんか?

 法を正すことの反対側に立つほど危険なことはありません。それらの個人修煉に溺れ、個人修煉を口実に恐れる心を隠そうとする同修に、正しい基点に立ち内心のすべてのよくない観念を徹底的に取り除いてほしいのです。そのようにして初めて全体での向上を成し遂げることができるのです。

 2008年2月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/25/171034.html