日本明慧
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人の心が何も残らないなら神である

(明慧日本)ここ数日、会社の仕事が多くて、疲れを感じていました。だから、家に帰ってから、先ず法輪功の第二式の功法をして、体力を取り戻そうと思いました。煉功すると、確かに体が軽くなり、頭も冴えてきました。しかし、やはり疲れが完全に抜けていないように感じていました。

 そこで、この疲れの感じというのは人の観念ではないかと思いました。それをはっきり認識するようになると、疲れの感じがすぐ取れました、しかし、筋肉が凝っている感じはまだ残っているのです。それで、私は続けて考えましたが、大法弟子は、体に法輪や色々の修煉に必要な機制が植え付けられており、体によくない反応が起こっても、直ぐ正常に戻るはずです。筋肉が痛いと言う感じは常人が超負荷に働いた後で生じる観念ではありませんか。ここまで考えると、この痛さはまた直ぐなくなったのです。

 大法弟子としては、人心を取り除いたら、自分が神であるかどうかと考えなくても、皆は神であるはずです。それでは、如何にして人心が何も残らない状態に達することが出来るのでしょうか。そのコツは師父が教えてくださった無条件に自分の心に向けてまだ何が残っているのかを探しだすことだと思います。

 人心を取り除く過程で、中国語は風格と趣があることに気づきました。漢語の中には人を描写する言葉がたくさんありますが、その中のいずれかがもし自分の当時の状態に合っているならば、つまり自分にその執着心がまだ残っている証拠なのです。例えば、或る時、私は同僚(常人)に対して、毛(沢東)のことを言っている時、毛は忠もなければ、孝も無く、仁も無ければ、義も無いと言うと、声はちょっと大きかったので、忍がないと同僚に言われました。しかし、私は自分がとても落ち着いていると思い、声がちょっと大きいなど、別に間違いではないと思いました。しかし、今分かったのですが、このように思う「私」は本当の私ではなく、その「堂々とした」私は実は常人の中で形成した観念に過ぎません。そのことが分かると同時に、一つの人心、良くない物質が師父によって取り除かれたのを感じ、私は本当に落ち着くようになったのです。

 この世であまりにも長く生きたため、たくさんの人心、観念、執着心を形成してしまい、我々は無意識の内にそれらを本当の自分と見なしてしまったのではないか。実は我々が遭ったトラブルや「壁」には偶然なものがあるでしょうか。それは皆我々の人心と何か関わりがあるのではありませんか。心に向けて探し、それらの人心をはっきり見分けて、取り除いてはじめて、本当に昇華できるのです。宇宙の法には基準があり、それはとても厳粛なもので、その基準に達しないと、絶対その次元に昇華できないのです。

 師父は最高至上の主で、仏法に果てがないとはいえ、修煉中の弟子としては、大法のことをいくら多く行なっても、我々が自分をよく修めるように努めず、異なる次元の法の要求と基準に達することが出来なければ、やはり常人が大法のことを実行したに過ぎません。自分の問題を心の奥まで探し、たとえ他人のいけないところを見かけても、先ず自分を探すようにしてはじめて、穏やかに神への道をしっかりと歩むことが出来るのです。

 人心や観念は大体ある社会環境や条件の下で形成されるのです。この環境や条件が現れると、観念もそれに従って出てきて、我々の思想を制御して、惑わせ、戸惑わせ、観念を本当の自分と見せようとするのです。だから、突っ込んで無条件に内に向けて探して初めてそれらを見分け、取り除くことが出来るのです。もちろん、これらの人心や観念に関しては、見破れば直ぐ簡単に取り除けるものがあれば、たとえ見破って、それは本当の自分ではないと分かっても、強い意志で抑制し、排除しないと簡単に取り除けないものもあります。

 例えば、私はテレビに頼り、テレビが大好きな心がとても強くて、いつも無意識に電源をつけてテレビを見てしまうのですが、後でそのテレビを見たいという考えは本当の私ではないと分かるようになり、テレビを見たいと言う考えが出てくると直ぐ排除し、一目も見ないようにして、たとえ家族が見ても、見ないようにし、「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」(『転法輪』)、固い意志で自分を制御し、やっとのことでそれを取り除いたのです。

 それから、睡魔に妨害された時、朝、煉功してから、気が緩み、また寝床に戻って寝てしまうことがよくありました。起きてからいつも悔しくてたまらず、同じ間違いを繰り返さないようにと決心ました。私は悟ったのですが、零時に正念を発し、3時50分に起きて煉功することから、3時間あまりの睡眠時間で十分足りると言うことを説明しているのです。法輪がいつでも自動的に回転し、我々を煉っているので、睡眠時間が足りないと眠くなるという観念を徹底的に取り除いて、本当に神への道を歩むようにすべきです。

 大法弟子としては、絶えず心の奥にむけて探し、人心を取り除き、人の殻から抜け出して初めて、神への道をしっかりと歩み、更によく全体を圓容し、法を実証して、三つのことを実行することが出来るのです。

 2008年2月17日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/24/170987.html