日本明慧
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自分の執着で同修を妨害することのないように


文/中国大陸大法弟子 山石

(明慧日本)師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を学んでから、集団で法を学ぶことの重要性を認識するようになりましたので、我々何人かの同修は改めて一緒に法を学ぶことにしました。すると、問題もそれに従って現れてきました。

 同修(甲)は法を学ぶたびに、いつも眠くてたまらないのです。そうすると、我々が、「こうしなさい」、「ああしなさい」と、その同修を手伝うような言葉を言ってしまうので、同修(甲)は内に向けて自分を探さなくなったのです。その結果、その同修はますます元気がなくなってしまいました。同修が修めて出来上がった一面の美しさ、神聖さを認識できず、同修の一面の表現にばかり執着しすぎたからではないかと私は考えるようになりました。

 以前、私は同修(甲)に子どもへの「情」に執着し、無理やり子供に法を学ばせることは、自分の執着で悪いものを形成し、子供に良くない影響を与える可能性があると言った事があります。今考えてみると、同修に対する所謂「手伝い」の中に、自分の執着も混じっていたように思います。師父は(『転法輪』<天目について>)の中で「求めれば求めるほど、開かないどころか、かえって天目の内側からあるものが湧き出てきます。その黒とも白ともつかないものがあなたの天目を塞いでしまいます」とおっしゃいましたが、もしかすると、自分の執着のせいで、同修の努力を抑制していたのかもしれないと私は思いました。

 そこで、私はこの「情」を放下するように努めました。集団で法を学ぶ時、私はもう同修(甲)に執着しなくなりました。すると、同修(甲)は自分で法を学ぶようになり、泣きながら一講を全部読んだのです。交流する時、同修(甲)は、今まで指図されていた時は、自分に抵抗感があったが、みんなに指摘されなくなり、よく行おうと思い師父の慈悲深さを感じて、泣いてしまったのだと言ったのです。

 このことを通して、私はつくづく感じたのですが、同修に責任を持たなければならないと思って、色々注意をしてしまったのですが、それは、実は同修への情に執着しており、裏に自己顕示欲、歓喜心、うぬぼれの心が潜んでいたのです。師父の要求された通り、同修の問題を見かけた時、個人の観念を持たず、「慈悲」を持って指摘すると言うことをやり遂げていなかったのです。

 不適当なところがありましたら、慈悲なる御指摘をお願いします。合掌。

 2008年2月17日


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/23/170834.html