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正法が終わるのを待ち望むとはいかなる心性か

(明慧日本)正法が目下の段階になって、最後の最後とも言えるでしょう。しかしながら、多くの同修の言動ではある種の興奮があり、これは責任感及び使命感によるものではなく、完全に常人レベルの「解脱」を思わせるものです。

 正法がもうすぐ終わろうとしているのは確かですが、まだどれぐらいの衆生が済度されていないのでしょうか。どのぐらいの人が縁があるにもかかわらず、大法の真相を全く知らないのでしょうか。どれぐらいの人が中国共産党に服毒させられながらも真相の一言も聞いていないのでしょうか。この状況下では、私たちの「興奮」はいかなるものでしょうか? これは私心によるものではないでしょうか? 「もう苦しまなくてよい。これで正しく扱われる。冤罪が晴れて、よい気持ちになる」と思うからこそ「興奮」しているわけではありませんか? この心性こそ黒い手及び悪い鬼に迫害の口実を与えているのではないでしょうか?

 正法が終わろうとしているのは、私たちが全く喜ぶべきではありません。私たちが喜ぶのは正法が完全に終える時です(喜びは概略な意味で、実際喜ぶこと自身が一種の情です)。それに対して正法が終わろうとするとき、私たちにとって最も緊迫な時です。この時はほかでもなく、中国共産党のぼろが完全に現れており、多くの災害に見舞われる時です。中国共産党による暴虐の統治が暴かれ、真相に対して衆生が益々受け入れるようになって来ました。私たちが行った多くのことは、衆生を喚起させるためなのではないでしょうか? 今や人々が目覚めて、中国共産党の害毒を拒否しています。暴虐な政治は効力を失い、破滅しますが、正法の勢いがまだ未到来のこの時点では、衆生の済度が大いに容易になってきました。私たちは正法終了直前のこの短い時間をもっと有効に活用すれば、多くの衆生を済度することができます。したがって、黄金とも呼ぶべき最も有利なこの時期に対して真に認識し、衆生済度にもっと没頭することが現在の時期にあるべき心性ではないでしょうか? 家にいてじっと正法の終わりを待ち望み、または楽しく見ているだけなどは決してしてはいけません。このようでは正法が終わった後に慈悲なる師父と顔をあわせる勇気があるでしょうか?

 皆で一つ一つの機会を逃すことなく、三つのことを遂行し、衆生を済度する責任を果たしましょう。

 2008年2月25日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/13/172319.html