日本明慧
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利益の心に対する認識


 文/大陸大法弟子一行

(明慧日本)私は、ずっと自分が金銭や利益については相当淡白だと思っていました。束にした大金を目の前に置かれても、私は要らないし、心も動かされない、利益に対する心はすでに放下したと思っていました。しかし実際の情況は違っていました。迫害を受けたので私は仕事を失ってしまいました。経済面でとても窮迫していたので、数年来生活を切り詰めて、いつの間にか利益を重くみていたのに気づかなかったのです。その後アルバイトに行った時、仕事場の環境はいつも来客が多く、時にはお客さんがライターの類のものを残していきました。要らないのもあれば、持って行くのを忘れたのもありました。そこで私の利益心が動き始めたのです。一日中心がそのために揺れ動き、毎回、残されているものがないかを確かめていました。本当に大きい面では自分をしっかりと捉えることができましたが、細かい点においては気が転倒していたのです。ライターはあまり値打ちがないため、私は気にせず、いつも家に持ち帰っていました。

 それで私の体がおかしくなり始めました。手と足にいつも裂け目ができ、痛くて我慢できないほどでした。どうしてこのようになったのか? 師父の法を読んで、法をもって自分をはかってみました。損得交換という理があることが分かりました。自分の行為はあまりにも正々堂々としておらず、また気前の良い常人にも及びませんでした。時に徳を失っても小さい徳ならいいのだと思っていたのです。この特殊な時期に私は資源を節約するためで、浪費もしていないし、ボス達の家にはこれらのものがいくらでもあって、彼らはこれぐらいのものをあまり気にしませんし、多く残ったものを彼らはいつも捨ててしまうので、ライターのようなものは私がすべ大法を実証する仕事に使っていました。

 偶然、週刊新聞のある文章を読みました。弟さんはお姉さんの家の米を借りて、返す時十分に返していませんでした。お姉さんの家には米が多いため、これらのことを気にかけていなかったのです。その後、弟さんはニワトリになって、これらの彼に属さないものを返すことになりました。この文章が私に与えた震動はとても大きかったのです。一人の一生の幸福と金銭はすべて定められた運命があり、自分の働きによる所得を使うことが最も良いのです。自分のお金を使って人を救う事は威徳です。しかし、もしも大法の仕事を口実にして、平気で他人のものを取ることは、自分の利益心を覆い隠しているのです。

 自分の思想の根源を深く掘ってみると、やはり利益心を徹底的に放下していなかったのです。私の家は小さいときから経済的にゆとりがなかったので、ずっと節約してきました。節約は個人にとって、とても良い習慣ですが、しかし細かいことにけちけちして、更に自分に属さないものを自分のものとして占有するならば、極端に走ってしまうことになります。更に自分のために口実を作り、小さいものなら何でもないと考えてしまっていたのです。実は数量の多少は決してポイントではなく、肝心な点はその事自身の性質です。1分のお金と100元のお金を取ることは本質には違いがないのです。このことに思い付いて、私は私が持って帰ったすべてのものをすぐボスに返すことに決めました。

 身は俗世間に置かれていながら、時には本当に把握しにくいものです。今私はとてもはっきりした思惟があります。自分の使うべきお金を使い、決してけちけちしない。自分に属さないものは絶対に要らない。たとえ、わずかなものでも、計り知れない目は私達を見ている。決して特殊な環境下でも自分の基準を低くしないと悟りました。私達はいかなる環境にあっても、みな正々堂々とすべきで、未来のために参照の道を残すのです。

 2008年2月25日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/15/172402.html