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師父は私に悟りを開かせ、汚い心を捨てさせた

(明慧日本)暫くの間、私はずっと心の中で、同修との間に生じた矛盾の状態から脱出できませんでした。怒りが収まらず、腹が立っていました。私はその同修に優しくしているのに、同修はどうして私にあのような態度をとるのか、と考えれば考えるほど腹が立っていました。様々な人心が出てきて、それを抑えることも出来ず、思えば思うほど怒りを強めていったのです。ほかの同修とこの問題について交流するときも、自分の不満と怒りを吐き出しながら話していました。この状態はおかしいと、自分でもある程度察知していたのですが、脱けだすことができませんでした。時々、自分の心のキャパシティーを大きくすべきだと考える時もありました。ほかの同修から自分自身の心へ問うべきだという忠告もありました。しかし、やはりこの状態から脱出することができないまま、自分の心へ問うことさえできなくなり、怒りで胸がいっぱいになりました。慈悲心と善念が現れることもなく、法を学習するときや発正念の時も心が集中できないままどん底に落ちてしまったのです。

 直接の衝突を避けるために、部屋にこもって自分を責め、法の学習と煉功をした時もありました。しかし、相手の同修のことを考えるたびにまた怒りが出てしまい、抑えられませんでした。まるで泥の中に落ちてしまい、自力で脱出できないような状態でした。なぜ、生々世々の縁がここに集中したのか、なぜ修煉に励んでいる同修がここにいないのかと、全く「人の心」でこの問題を考え、完全に「人の心」で師父が私に設けられた難関を見てしまっていたのです。

 問題の執着心の根元が見つからなかったので、怒りを消滅させるために発正念をしても効果がありませんでした。身体の調子も精神状態も良くないまま、日々の生活を送り、気に入らない出来事もたびたび起こるようになりました。ネットで同修たちの修煉体験の交流文章を読んでも、どん底から脱出ができないまま、自分は本当にだめだと思うようになり、すべては「人の心」から脱出することができず、完全にその渦に巻き込まれてしまっていたのです。その時、師父の『オーストラリアの学習者へ法を説く』が発表され、それをじっくり読みました。師父は我々弟子がなぜ同じところで立ち止まり、前へ進まないのかと非常に心配しておられることを知り、私は恥ずかしくて涙が止まりませんでした。自分が師父の要求より程遠いところにいることを知って、大法弟子と名乗る資格さえないような気分になり、私は一気に4回も読みました。続いて、師父の各地の説法を読み、心の中で「私は必ずすべての執着心を探し出し、それを取り除きます」と師父に誓いました。

 その日、私は自分の存在を強調する心を見つけました。ずっと心の中に潜んでいた自分の存在感を強調する「人の心」をなぜ長い間発見できなかったのか? なぜ自分をそんなに強調するのだろうか? なぜ自分の存在をほかの人に認めてもらいたいのか? なぜ自分が他人より偉いと思うのか? ずっと深くまで自分の「人の心」を掘り出し、探せば探すほど心は震動しました。その日の夜、目を少し閉じて休むと、すぐ浅い眠りの状態に入り、私は夢を見ました:孫悟空が手に一皿の人の心を取っている様子が見えたのです。私の胸が開かれ、皿いっぱいの様々な心を取り出している様子が見えました。その時取り出された心には、闘争心、怨恨心、歓喜心、自慢の心、嫉妬心、自分の存在感を強調する心、安逸を求める心、自尊心、焦る心、等々の黒くて腐った心が皿いっぱい取り出されました。この一つ一つの心からくさい臭いが出ていました。私は目が覚めて、起きました。先ほどの出来事に驚いて眠る気持ちと疲れがなくなっていました。その時、私はやっと、なぜ長い間心性の難関を乗り越えることができなかったのかが分かりました。そんなにたくさんの腐った心が中に存在していたのでは、慈悲心が出るわけはありません。師父は夢の形で私に悟りを開かせたのです。これらの心は真っ黒い腐ったもので汚いものです。そして危険なものでもあるのです、早く捨てないといけません。

 私は師父の無量の慈悲心と比べるもののない巨大な恩に恵まれながら、自分のことを考えるとなんという恥ずかしさかと分かりました。私は直ちに立掌して発正念をして、このすべての汚い心をすぐ取り除きたいと思いました。私は師父にどう感謝すればいいか分からず、涙が止まらなかったのです。

 今回、心性の面で乗り越えなければならない難関を乗り越える時、私が悟ったことは、今まで蓄積していた強い執着心は花崗岩のように硬く固まっていたことでした。師父は私がこの硬い執着心を捨てたいという心があるのを見られ、この大きい山を移してくださったのです。すべては師父がやってくださいました。私にはやりたい心だけはあっても、実際に自分では何もできず、一つの法を信じる心だけがありました。

 以下の明慧ネットに載っている同修の修煉体験に関する文章はとても役に立ちました。

 「法を正して修煉する時期、法を実証する各種の項目を実行する時に、お互いに起こる心性の摩擦は、実は師父はこれを利用して我々の長い歴史の中でのすべての恩怨を解決させ、その過程で我々に法に照らして心性を昇華させる工夫である」。

 「現在の状態から見れば、我々の同修の中にも、この問題を認識していない人もいるのです。また相手の行為に対して、『法を破ってしまうから』とか、『修煉している人のように見えない』とか、『彼は自分を修煉していない』とか、他人の問題ばかりに気にする人がいます。その時、私と同じように、怒りが抑えられなかったでしょう。実はこの行為こそ修煉者の持つべき心ではないのです。我々が明確にしなければならないことは、実はこの宇宙でだれでもこの法のほんの僅かな部分でも動かすことはできないのです。誰かが動かそうと思ったら、とても危険です。もし、本当に同修の誰かがこういう危険な行為をとろうとしているならば、彼のために心配して、彼に教えるのではなく、彼を恨むでしょうか」と書かれている文章がありました。

 「業力は返さなければなりません。ですから、起こる出来事は我々の心の痛いところに突き刺さるのです。我々を辛い目に遭わせ、体も心も調子が良くないようにしないと業力はどうやってなくなるでしょうか。座禅をする時の痛みと同じ理屈です。足が痛くないと業力は消滅しません。したがって、同修から『貸して上げたものを返せ』と言って来る時、我々が自分は正しいと思うとき、相手は突然非常に失礼な、無理な態度で臨むかもしれません。我々は大きい代価を払わないといけません。とにかく払うのです。侮辱されたり、人の前で酷く辱められたりする心の準備を持たないといけないのです。なぜなら、我々は昔同じことを相手にしたからです」。

 「しかし、我々はある時、なかなか法の上から問題を考えるのではなく、心の中に相手の『過ち』だけをはっきり覚えてしまうのです。修煉の過程で起こっている日常の越えるべき難関を越えるように努力するのではなく、相手の『過ち』を心の中で怒りを蓄積して、8年—10年になったら岩石のように固い執着心として発達し、腐った心を体の中に『保存』して、取り除かないのです。いつも、同修が嫌い、同修に問題があるとなってしまうのです」。

 「ある時、自分の問題点や過ちが見つかっても、やはり常人の理屈から表の原因しかつかむことができないのです。まるで、人と神の二つの道があって、煉功の時は神の道に歩んでいて、問題が起こったら、あるいは執着心に触れたら、人の道に戻ってしまうのです。自分の心を問わず、内へ向けて問わなくなりせっかくきた昇華のチャンスを逃してしまうのです」。

 以上の同修の話は、この2年間、ずっと自分が抱いていた問題にぴったりと符合します。私は自分の悟りがいかに鈍いものであったのかを知ることになりました。非常に遠い回り道を歩み、2年の時間を無駄に過ごしました。これほど後悔したことはありません。今回の私に対する警告は非常に大きかったのです。

 今、私は問題があったら内へ向けて探し、心へ問うようになりました。今は、毎日自分の心へ問うことの喜びを感じています。それによって、同修の立場で考えるようになり、相手に同情するようになりました。矛盾があったら、先に自分の過ちを直ちに探すようになりました。誰にも不満を抱くこともなく、不平を言うこともなく、師父の教えてくださった「三つの事」を文句なくやり尽くし、人を救い済度することを胸に、自分を修煉するようになりました。私は悟りを開きました:我々の生命は昇華の過程にあります。一つのレベルに到達するとそこでまた新たな執着心が出てきます。それを取り除くとまた昇華することができます。また新たな執着心が出てくると、また取り除く必要があります。すべての執着心を取り除けば円満になるのです。

 2008年2月26日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/19/172676.html