偏見を捨て 寛容と慈悲を修める
(中国語:)
(明慧日本)法輪大法を修煉する前の私は、悪をとても嫌い、善悪を明らかにする性格でした。そのために職場で話し合う同僚も少なく,私は彼らが気に入らないので、彼らと付き合いたくなく孤高で偏屈な人間でした。修煉し始めてから、この性格は私に妨害をもたらしました。
悪を憎む心が強すぎて、私の心は狭く過激になり、他人に対して寛容に接することができなくなりました。他人に対して思いやりがなく、同修の欠点と不足に対しても寛容でいられませんでした。そのため自分の修煉の向上に大きい障害をもたらしました。衆生を済度することも、あまり寛容でなく、やさしい心が足りませんでした。正法の活動の中で同修との協調がうまく進まず、自我を強調して同修と対立し、隔たりが生じて同修を決め付け、内に向かって修めず外に向けて探しがちだったのです。
ある事件を通じて、私は問題の重大性をやっと理解しました。そのときやっと本当に自分の不足に直面して、同修を含む他人に対する偏見を捨てて、悪を憎む過激すぎる性格を変え、後天に形成した観念を取り除いて、さまざまなことを受け入れ、寛容で善良な心を持って人と接することができるようになりました。
私の所在地に甲さんという協調者がいます。同修の間に論争が生じて、多くの同修が彼に対して不信を抱きました。皆は彼にあまり法を実証することに参与しないで、法の勉強をしっかりして、自分を調整するように勧めました。私も彼の状態があまりよくないと思っていました。時には彼と接触したくなく、彼はやめた方がいいと思っていました。いくつかの要素から、ある日私は悪人に連行されて、皆の救援を通じて私は釈放され家に帰りました。
帰ってから、甲さんは私の家に見舞いに来ました。私のノートパソコンのパスワードを尋ね,他の同修にパソコンを渡してもらったと述べ,私の家族から鍵を受け取って私の家に入ったと言いました。彼がそのパソコンを使うのを聞いて、私の心に不快感が湧いてきました。まだ全体的な事に参与しているのかと思いつつ、私の家まで行ったのを聞いて、以前の偏見に加えていっそう不平に思いました。
そのため、心の中でずっと放下することができず、どうして彼がいつもそうなのかと思い数日間ずっと同じことを考えて、法を勉強することもろくにできず、心の中に不満があり、彼に対する咎めもあれば心配もあって、とても不満でした。自分自身もこれは間違っていると分かっていましたが、気に入らない思いがとにかく湧いてきました。
ある日、偶然に家族と話していて事情が分かりました。私が連行された後に、甲さんは積極的に私を救援することに参与し、わざわざバスに乗って私の家に来て家族と交流し、現地のたくさんの同修と協力しあって、力の限り一生懸命努力したそうです。また、彼が私の家に行ったのも、家族がお願いしたのだと分かりました。これを聞いて、私はやっと自分が甲さんを間違って咎めたことが分かりました。今考えてみると、やはり他人の不足に注目し、同修に対する偏見を捨てていなかったのです。自分は宇宙の特性との間に隔たりがあり、自分の心が間違っており、自分が昇華しなければならなかったのです。
私の体験では、いったん心の中に不満が出てきて、同修に対する偏見があり納得できず心が動じる時は、きっと自分に問題があるのです。もし本当に同修に不足があるとき、真に他人のためであれば、善意を持って指摘すればよいのです。たくさん交流して、法の上で互いに向上すべきです。心の中で咎めて不平に思い、甚だしきに至っては警戒心を抱えて疎遠になり、気に入らず気ままに論じて口を修めないことは、すべて覚者がいるレベルの境地ではありません。
慈悲なる師父を思い出すと、師父が私達を済度する過程では、私達の長所ばかりをご覧になり、私達の不足と短所を見ないで、過ちを許してくださいました。根気良く私達に法を説いて疑問に解答され、あまねく存在する問題を善意に指摘し、真に私達弟子が良くなることを期待して、絶えず私達を鼓舞して、私達すべての弟子の正念を加持されました。私たちは、師父の深い慈悲ですべてを溶かされ、すべてを包容されたことを感じました。
どうして同修や他人に対して偏見が生じるのかを考えるとき、自分に強い自我があり、これは旧宇宙の特性が自分に表れたものであり、その「自我」があるからこそ、「他者」を包容できなくなるのです!
正法はすでに大詰めになりました。私達は本当に変化し昇華することができ、すべての人心と観念を放下して、寛容と慈悲を修めることができると信じます。これは正法の要求であり、未来の需要です!
未熟な体験談のため、同修の補足と指摘をお待ちしております。
2008年2月28日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/18/172682.html)
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