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慈悲は人情ではない

(明慧日本)数日前、一人の同修は私に、「あなたはとても理知であると思う。しかし、いつも何かが欠けていると感じます」と話しました。私は彼に、「どの方面が欠けていると感じますか?」と聞きました。同修は、「人情がちょっと重いようです」と言いました。その時、私は疑問が解けなかったので、自分のどこに問題があるか知りたくて、同修に引き続き聞きました。同修は、「たとえば同修にいろいろな困難がある時、あるいは他の人に困難がある時、あなたはいつもどのようにして彼らを助けるべきかと考えていて、その心は人情であると私は思います」と続けて言いました。

 帰った後に、私は真剣に同修の言った事を反省して、以前師父が、「彼の事はあなたの事であり、あなたの事は彼の事である」と言われたことがあるのを思い出し、私は同修が出会った困難を自分の事のように対処し、普通の人に対応する時も出来る限り理解し、善良な心に基づいて彼らに対処するようにしています。「これは慈悲ではないでしょうか? どうして同修は執着、あるいは人情があると感じるのでしょうか?」。この時に師父が言われた「非がないことは人心であり、心があることは悲ではない」(二〇〇四年米国西部法会での説法)と言われた言葉が頭に浮かび、私は目が覚めました。私はずっと、自分は慈悲心で他人に対処しているのだと思っていたが、実はそれは人の「情」だったのです。

 私は冷静に自分の普段の言動を思い出し、たくさんの執着心と情の要素があることを発見した。例えば、普段よくドラマを見てその内容に動かされやすく、「自分はどうしてすごくドラマが好きなのか?どうして動かされるのか?」と考えてみました。それは人の情があるため、多くの場合は同情や善良の心で、その人は可哀想、またあの人は本当に大変だと思ってしまうが、それは本当の慈悲ではありません。

 これもふだん自分の心に反映し、本当にいったん自分の利益に触れた時、もうこれらはすぐだめになるのです。例えば真相を伝える時、もし相手が受け入れるならば、私は歓喜を表します。しかし、もし相手が受け入れなければ、あるいは党文化の思想をもって私と言い争う時、口には出さないが心の中では密かに「この人は終わっていて、どのように彼と話をしても、すべてを聞いてくれない」と思い、師父の説法では、真に慈悲心を持ってこの人を救い済度できないと思い、心の中で悲しいと感じます。もし自分が本当に慈悲の心をもって他の人に対処するならば、どうしてこのような時、他の人に不平を漏らし、あるいは自分の損得を気にするのでしょうか?

 私は師父の言われた「慈悲」は人情ではないと思います。もし人心、人情がある場合には本当の慈悲心を持つことができません。私はふだん参加しているプロジェクトの中で、内在的に隠れている顕示心、歓喜心、疑心、恐怖心、闘争心、入り混じっている嫉妬心、または少しの成績を得た時には「成就」心、自分に能力があると思い、自分の素晴らしさを感じる心、同修と一緒に問題を探求する時に、自分に対する人の感じ方を心配し、単刀直入に言い出せず「自分を守る」という心を発見し、このように多くの人心があって、どうして私は本当の慈悲を持つことができるのでしょうか?

 ある時、私の態度は「善良」でしたが、例えば、人心が混じり、他人を自分に従わせるために温和に話したり、理解を求めるためにゆっくり話したり、ある時には自分まで傷つけてしまう恐れがあり、あるいは何かを心配して人の同情心とやさしい心が動いてしまっては、本当の慈悲ではありません。私は一層の薄い「情」の膜にくるまれていることを感じ、突破することができきません。しかし、私が嬉しかったのは、少なくとも自分の人心と執着を見つけて、法理の上で認識がはっきりしたことです。だから、私は最後にはきっと執着と人心をも捨てることができると信じて、これから行なうことが最も良いのです。

 私はこの体験を書き出して、同修たちと互いに励まし合うことを望み、同時に類似する問題が存在する同修に対して、ある程度助けになることを望みます。

 もし不適切なところがあれば、同修からのご指摘をお願いします。

 2008年3月3日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/21/172830.html