日本明慧
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同修を隔てる山が見えた


 文/大法弟子 覚心

(明慧日本)正法は迫害の中ですでに8年を経て、9年目に入りました。正法の勢いは進んでおり、世の中に新しい情勢を齎しました。どのような状況になろうと、この世の人間がどのように変化しようと、大法弟子が人を済度することは不変であり、明日正法が終わろうとも、私達はまだ救える人を探し救わなければなりません。法は不変であり、善は不変だからです。しかし法輪が内回りには自分を済度し、外回りには人を済度する中で、一歩前へ進む為には何が不足でしょうか? 私は、私達の前に「自我」という大きな山があることに気がつきました。

 「自我」から出られないのは、「自我」を出たくないわけではなく、一つは「自我」の表現形式を完全に認識していないこと、もう一つは正しい見方をもっていない為です。

 では、この「自我」とはどういうものでしょうか? 今この時期にそれはどういうふうに隠れているのでしょうか? 大法弟子はすでに迫害の中で8年を歩んできました。今まで続けてきた大法弟子はすべて個人の認識で、この観念は人の行動を支配し、実践の中で反って観念に対する執着も強くなり、修煉の初期で気づかず徐々に出来上がったものであり、多くの同修はすでに気づくことさえできなくなっているのです。

 自分の心性や悟性、あるいは知恵に執着して現地の情勢はこうでなければならないと思い込んだり、他人が法を実証する方法は危なく、穏当にする方法だけが安全だと思ったりするのです。このすべてがすでに大法弟子が人を救うことの障害となり、全体を形成することに影響を与えていると気づきました。極端な地区では、「自我」の認識と観念に執着するあまり、水と火のようになり、派閥を形成し対立してしまいました。

 それでは、正しく認識する方法とはなんでしょうか? 最も根源を言えば、師父は私達に大法を与えていらっしゃいます。宇宙の本源である法は不変であり、人心の変化を測ることができます。また、生命は絶えず正され、不足を直すことができます。すべてのことにおいて「法が一番」と考え、いかなる事をなすにも、すべて法を考慮しなければならないと思うのです。

 今日の法を実証する中で、ある同修は、「協力しない、したくない」、甚だしきに至っては「目的を達することができない」と言うのです。これはあなたの心性、悟性が達していない為だと思います。法はこのようなものではありません。異なった次元には異なった表現があり、異なった心性にも異なった表現があります。無形は更に固定した形式がありません。大法弟子は今日法を実証するのに、すべての心性を包容し、すべての悟性を包容すべきです、他人を変えるのではなく、法の基準に則り自分を律しておこなうべきだと思います。もし、みなが、すべて法に従い、全体のため、人を救うため、他人のためという心をもっておこなえば、重大な突破ができると思うのです。

 以上は個人的な認識であり、同修に参考にしていただければと思います。

 2008年3月8日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/15/172335.html