日本明慧
■印刷版   

明慧ネットから受けた多くの受益


 文/北米の西洋人大法弟子

(明慧日本)私は現在、中国語の明慧文章を英語に翻訳しています。翻訳組の強調人が私に今回の小型交流会のために体験談を書けるかと聞いたとき、私はいいえと答えました。それは、私は自分があまりにも能弁だから、発言を少なくすべきで、ほかの同修の交流をもっと多く聞くべきだと思っていたからです。翌朝、私は自分のこのような考えは間違っていると意識しました。なぜなら、私はただ自分にどんな執着があるか、どうやってそれを取り除くべきかだけを強調していたからです。もし、誰もが体験談を書かない理由があれば、私たちの小型交流会は体験談がなくなります。

 最近、私はいくつかの魔難に遭遇しました。よく乗り越えたのもあれば、よく乗り越えていないものもあります。これらのこと自体は、私がやっている英語の明慧ネットの仕事と直接的な関連がありません。しかし私から見れば、私が明慧ネット上で読んだ内容は、私がそれらの魔難を乗り越えることの助けとなりました。そのため、私はインターネット上で師父の新しい経文を勉強することを通じていかに難関を克服したかの体験について、交流をしようと決めました。私はみなさんと、自分がいかに明慧ネットから受益されたかについて交流することによって、明慧ネットが世界各地の大法弟子に対して働く作用について伝えたいと思います。難関を乗り越えて一週間後、私はまた新たに庭に芝生を敷いている時に気づいたのですが、私はたとえ私の体験談が発表されなくても、それを書き出すことによって、私の理解を深めることができると意識しました。この道理を私はほとんど忘れていました。もしかして、これは私に対する一つのヒントだったかもしれません。私からみれば、これはまるで耕し終えた家の庭の土壌が、種蒔きを待っているのと同じようでした。

 師父は『転法輪』の第六講「心を正しくもつべし」で、「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果して高い次元へ修煉して行けるだろうか、佛は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛(まぎ)らわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず、みんな偽物だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません。動揺するかどうかを試すのです。絶対動揺しないという決意があり、いざという時に本当に動揺しなければ、あなたはおのずと乗り越えることができます。なぜならあなたの心性がすでに向上しているからです。」と説かれました。

  六月の最後の日曜日、私は突然自分が魔難の中に陥っていることに気づきました。どうしてこのような情況が発生したのでしょうか? これは2003年、私がマンハッタンで拷問展示を行なう場所で真相を伝えた時の会話から始めないといけません。一人の敬虔なキリスト教信者が、正念を発している学習者の後ろで行ったりきたりしていましたが、憤怒した彼の口からは聖書の中の内容がついて出ていました。

 私は自分の最大の慈悲をもって彼と話し合いました。彼は、私たちがキリストの予言の中でふれた邪教の中の一員だと思っていて、私たちを救おうとしていました。この体験は私に、旧勢力の按排はいかに残酷で、不公平かを認識させました。多くの宗教信仰のある人はみな努力してベストを尽くそうとしています。彼らは積極的に生活し、自分の道徳修養を向上させようとしています。しかし、彼らは自分達が信仰している宗教の中の正しくない教義に誤って導かれています。また、まさにこれが彼らの未来を危険な境地に陥れています。私は目の前のこの人を救うことは一刻も猶予できないことだと感じました。私はイエスとキリスト教の聖書についてある程度理解していたので、彼の信仰について思い通りに話し合うことができました。概括していうと、私達は順調に話し合い、効果もよかったのです。私は話し合いをキリスト教の二つの基本教義に集中させました。一つは、あなたの近所を、自分自身を愛するのと同じく愛する、もう一つはあなた達が他人を論断すれば、それと同じく人に論断される、ということでした。基本的に私は彼に、彼が私たちに対して怒るか、あるいは勝手に私たちを判断すれば、このような行為は真に彼らの信仰する宗教の教えに従ってないということを認識させました。

 彼は、私が本当に彼のために考えていると感じ、二度と私たちに良くない考えを持たないと示しました。結果的によかったですが、私のやり方には不足がありました。

 私は現在、現地の煉功場の協調人の1人です。私がボランティアの協調人を担当しようと決めてからあまり時間がたっていません。なぜなら、現地の学習者はいろいろなプロジェクトで忙しく、この煉功場はほとんど学習者らに忘れられていたからです。この煉功場は多くの有名な観光地から近く、大陸の観光客で満載のバスが次々と煉功場のそばを通っています。それ以外に、まだ法輪功修煉者のいない国を含めた、世界各国からの多くの観光客も私たちの傍を通ります。ここで私が提言したいのは、法輪功修煉者として、私たちはますます多くの、異なる領域のプロジェクトに参加していますが、往々にして最も基本的なプロジェクトが時には逆に見落とされているということです。

 6月の最後の日曜日に、一人の体つきがたくましい人が私の前に歩いてきて、「あなたは唯一の救世主はイエスであることをご存知ですか」と質問してきました。それから彼は私に、私が邪教に陥っていると告げ始めました。私は彼にどうしてこう考えているかと聞きましたが、彼は、テレビで大法に関連する記録映画を観たことがあると答えてくれました。私の心はまるで重い錘で叩かれたようでした。

 私はとても気落ちし、少し怒りを覚えました。一つのテレビ番組がこれほど大きな破壊力を持っていたのです。この人はまた大法に関する悪口をたくさん言いました。一人の西洋人として、自らこのように話すのをほとんど聞いたことがありません。もしかして大法に対してよくない考えを持っている人がいたかもしれませんが、しかしこのように言い出す人はめったにいませんでした。私は当年、私がマンハッタンの拷問展示場で真相を伝えた方法を用いて真相を伝えてみましたが、少しも効きませんでした。私は人と言い争う立場に陥ってしまいました。

 私は自分の良くない行為に気落ちしました。その時の状況を改めて考えてみると、私は同様に間違ったロジックを使っていました。かつ、当時の心理状態もあまり良くありませんでした。突然、最初に引用した師父の『転法輪』での説法が私の頭に思い浮かびました。その時を振り返ってみると、私の頭にはいろいろな疑問がたくさんありました。私はかつて、常に自分が修煉できるかどうかを疑っていました。しかし、師父に対する堅い信念は少しも揺るぎませんでした。その数時間、私は極めて恐ろしい状態に陥っていました。これは私に深い印象を残してくれました。

 そして私は師父の経文『三界内の法を正すことを妨害することに参与したすべての乱神を全面的に解体せよ』の中の、「その中に人類のいくつかの主要な宗教を管理しているそれらのいわゆる神のことですが、私が法を伝える初期に、世の人々が大法弟子になれるかどうかを平等に対処するために、それらに三界から離れるよう伝えたことがあります。一部は離れました。しかし、一部は宗教の中の人々が法を正す時期の大法弟子のことに参与しないことを口実に、離れておらず、さらに各宗教の中の人々に大法と接触させないようにしています。これはすでに、法を伝える中で『全面的に開放して、人心のみを見る』という伝法の宗旨に違反し、法を正す中で変化した実情に適応すべきことに違反しました。」という部分を思い出しました。

 師父のこの段落の法は、直ちに私の頭を冷静にさせてくれました。私は、煉功場で重い錘で叩かれたと感じたとき、自分がすでに他の空間の乱神に邪魔されたと悟りました。そして、私は師父が『転法輪』の中で説法された、このような魔難に関する法も思い出しました。私は冷静になって、『転法輪』を読み始めました。私は『転法輪』の中にこの類の魔難に関する説法があることを覚えていましたが、具体的にどの部分にあるかは覚えていませんでした。ですから、私は本を開き、前回読み終わったところから読み始めました。私が1ページめくった時、その段落の説法がすぐ目に入りました。私は思わずこっそりと笑いました。私はいつも私たちの向上を助けるために行き届いている師父の按配配に対して、心は畏敬でいっぱいでした。私はまた2003年の英語版の同じ段落をも読みました。師父は『転法輪』の中で、「絶対動揺しないという決意があり、いざという時に本当に動揺しなければ、あなたはおのずと乗り越えることができます。なぜならあなたの心性がすでに向上しているからです。」と説法されました。

 私は自分に絶対動揺してはならない、と言い聞かせていました。その時は、ほとんどの魔難が素早く過ぎ去りました。そして、私は師父の乱神に関する説法を改めて読み、自分の主意識を強めました。また、私はいかにしてこれらの魔難を招いたのでしょうか? もしかして、あなたたちはすでにその理由を分かっているかも知れません。私の理解では、私がニューヨークのマンハッタンの拷問展示場でそのキリスト教信者に真相を伝えるとき、その出発点は相手のためでしたが、しかし、私は相手に説明するとき、キリスト教の骨組みと思惟の論理を使ったのです。一旦私がキリスト教という枠に入ったとき、私はキリスト教の教義とその次元が現した力によって制限されてしまいます。私がキリスト教の枠をもって真相を伝え始めた時、乱神はこれを口実に、いろいろな気がかりを私の頭に注ぎ入れたことでしょう。しかし、これらの考え方は私自分自身のものではありません。

 『再び政治を論ずる』で、師父は「ですから、是非を混淆するために、中共はまた法輪功学習者が『政治に参与している』という虚言を作り上げ、思想が中共に操られているのに、自分では分かっていると思い込んでいる人を惑わし、迫害を維持しようと企み、迫害のために『理論的根拠』を作っています。実は人類の『政治』は、迫害する者のために用意されたものではありません。もし『政治』が迫害を暴露することができ、『政治』が迫害を制止することができ、『政治』が真相説明に役立つことができ、『政治』が衆生を救い済度することができれば、このいわゆる『政治』にこれほどの利点があれば、なぜ喜んで参与しないのでしょうか?」とおっしゃいました。

 人類社会の中の各種の宗教は、私たちを迫害するために作り出されたのではありません。師父はこの経文の説法で、私に注意を与えてくださいました。それは、もし旧勢力にいかなる取っ手をつかまれて、隙に乗じられたとしても、私がそのために支払う代価は私には耐えられないものであるということです。もし、次回また宗教に熱中する人に会ったら、私はなるべく大法の中の法理を持って、大法の素晴らしさを解釈し、あまり高く説明せず、あるいは結果に執着しないようにします。

 今回の魔難の中で、私の漏れのある一部が暴露されました。これこそ今回の魔難を引き起こした原因となります。しかし、私たちのウェブサイトについて話したいと思います。時には、私たちの交流は一つの文章をネット上で発表するかしないかに重点が置かれていて、私たちのウェブサイトが三種類の読者群に利益をもたらすということを忘れがちです。特に、ウェブサイトがいかに私達自身を手助けしているかを忘れています。私はこうすることによって、自分がとても励まされるということに気づきました。私は、もしウェブサイトで師父の新しい経文を読むことができなかったら、魔難を乗り越えるための私の時間はさらに長くなり、かつ、さらに多くの魔難に遭遇したかも知れません。ウェブサイトに発表されている師父の新しい経文は、世界各地の無数の学習者を手助けしています。

 私は時には、自分がいかに幸運であるかを意識していません。西洋社会の中産階級に属している私は、このようなウェブサイトを利用する自由を持っています。中国大陸にいる学習者は自由にウェブサイトを利用することができず、あるいは混み合っている一本のケーブルを通じて、ウェブサイトを閲覧し、師父の経文と各地での説法を印刷していて、とても容易なことではありません。

 ウェブサイトで同修らの書いた交流文章を読むことは、私にとって、とても大きな助けになります。例えば、2007年7月1日、私は法を得てちょうど六年になりました。そして、私はその日に自己評価をしようと思い、学習者の交流文章を読むと自己評価の助けになると思いました。不思議なのは、学習者らの書いた数枚の修煉体験で提言されている修煉状態は、私と非常に似ていたことでした。これらの学習者は良く修煉できているところもあり、しかし漏れがあり、長い間改善できず、現在ちょうど旧勢力の按排された魔難に陥っている例もありました。これらの体験文章を読んで、私は今後もっと良く行なうことを心に堅く決意しました。

 私は今回の交流会期間中、またほかの機会を利用して、大法のウェブサイトがいかに自分を助けてくれたか、自分をさらに法を正す流れに十分溶け合うようにしてくれたのかを交流できることを希望します。ウェブサイトは各種の異なる方法を通じて、このほど多くの学習者と修煉していない人を手助けしました。私たちの内部交流会で、これらを交流することによって、私達のこのプロジェクトの修煉環境は豊富になり、改善されると思います。

 2008年3月12日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/7/26/159575.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/8/4/88296.html