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人生の享楽と刺激への執着を無くそう

—— 若い同修との交流

(明慧日本)若い私は大法を学ぶ前は、文芸作品、映画、歌、電子ゲーム、各種の娯楽や刺激的な享楽への執着がとても強かったのです。大法を学んで修煉し始めてからも、一度はこれらに邪魔をされ精進せず常人のようでした。まわりにいる若い同修も同じような執着に妨害され、一部の人は遊びに夢中になって、安逸を求め精進できなくなりました。互いに交流し、共に向上する気持ちでこのことに関する私の体験を話したいと思います。

 現在の常人社会は道徳が堕落していて社会の各領域に現れています。芸術、文芸、各種の刺激的なゲームなどに魔性が爆弾のように現れ、甚だしきに至っては、変異したもの、完全に人類にあるべきではないものでいっぱいです。常人の人生の目標は、精神的に刺激をもとめ、限度のない享楽を求めるものです。若い同修は、この誘惑いっぱいの染めもの甕のような俗世間に身を置いており、影響を受けるのも大きいのです。遊びにはまって刺激を求め、享楽に執着し、欲望や魔性的な考え、あるいは観念などを、きちんと修めてなくすことはとても重要です。以下は私の体験です。

 一、内に向かって探す。テレビを見る、文芸作品を読む、ゲームをする等はすべて執着心を引き起こすものであり、修煉者はそれを無くすべきものものだと認識するだけでは足りません。師父は『転法輪』の第7講で「その心を捨てることができさえすれば、その物質自体は作用をなさないもので、真に人を妨げるのはほかでもないその心なのです」と言われました。自分がなぜこれらのものに執着するのかを探すべきで、どんな心、欲求に満足しているのかを探すことです。例えば、男女の情、名誉、利益、闘争心、刺激的なもの、甚だしきに至っては暴力、エロチックな魔性の考えなど、これらすべて探し出し、法に則り、その危害を理解し、確実に修めて無くすことが重要だと悟りました。

 二、法をよく学び、五千年に及ぶ中華文化の半神文化こそ正統な人類文化だと理解することです。道徳と神の内包に満ちたその精華は、人を正しい人間の道、さらに神の世界へと導くものです。『九評』の6章・中国共産党による民族文化の破壊の評論では、「文化の根本はその道徳的な内包であり、娯楽とは異なる。中国共産党は文化の表面の娯楽機能を回復させて、道徳が破壊されたあとの実質を隠そうとした」。常人の精神面は、文芸作品と各種の娯楽にも拘らずとっくに「文化は道を講ず」の主旨と離れてしまい、完全に感覚的な刺激を求め、無制限に人の欲を放恣し、最後に自己を放棄し、その上悪党の文化をさらに加えて余計に魔性と変異に拍車を掛けたと思います。修煉の中で私達は常人社会に立脚し最大限に常人の状態に合わせて修煉するのですが、しかし私達は絶えず高い次元の法を悟ると同時に、低い次元の法及び人としての道理を分からなければならず、人間の表面の文化と内包を正すことも大事だと思います。「神韻」の公演を見て、明慧ネットの伝統文化に関する文章を読み、大法弟子の絵画を見ることは、人間の道を正し、変異の思想を正すことにとても有益なものだと感じました。

 三、天目が開いている多くの同修は、一部の同修の心が正ではなく、変異した娯楽番組に執着する時、各種の邪魔がはいると語っています。私は、いったんこれらのものを求めれば魔の妨害も大きくなり、その危害はとても大きく結果も極めて恐ろしいと悟りました。私達は神聖なる大法を修めているのに、これらの汚い、次元の低いものに夢中になるなど、本当に情けないことです。

 正法の最終段階にある若い青年の同修たちよ、私達はますます冷静にだらだらすることなく、徹底的に刺激と享楽への執着を根絶して奮い立ち、大法弟子のやるべき三つの事に全ての心を向けましょう。

 2008年3月13日 

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/3/7/173810.html