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二言三言: すべて師父と大法のおかげ


 文/大法弟子 明宇

(明慧日本)修煉の中で自己に執着することはとてもよくないことで、修煉者の向上に深刻な影響を与え、さらに衆生済度にも影響し、甚だしきに至っては邪悪による迫害の隙に乗じられます。

 本日ここでお話しする自己に執着することとは、主に個人の能力に執着することを指し,私に現れた事としては、たとえば、私は、書いた文章が明慧ネット或いは明慧週刊に発表され能力があり、私は3退を勧めいく人が脱退した、私は職場で如何に法を実証する環境を開拓したか、私は法のために何をした……など、これらはすべて普段気づかないうちに湧いてきた考えであり、時にはまったく意識してないことでした。

 同修と接するときに現れた事としては、例えば甲同修は1万人に勧めて3退をさせた、彼はすごい。乙同修は正念が強い、丙同修は腕がいい、丁同修は3つのことがとてもよくできている‥‥などです。

 実は、自分または同修に能力がありよくできていると言っても、これは師父に与えられたものであり、すべては師父と大法のお陰なのです。大法と師父がいらっしゃらなければ、私達の命は存在するでしょうか? 大法が私達に知恵を啓示しなければ、私達は何ができるでしょうか? 師父は法を正し、宇宙を正し、すべては師父がなされていることなので、私達のしたことは天象変化の一部の顕現に過ぎず、或いは師父が私達を選ばれ、私達は師父が按排された道を歩んでいるとも言えます。

 私の言ったことは多分同修はとっくに悟っているかもしれません。しかし私は今日、執着について自己を省みてやっとわかりました。特に正法はもはや終わりになり、私達は数年来困難な中にあってここまで歩み、自分が手柄を立てた、手柄とは言わなくても苦労があったと思ってしまいました。しかし私達のしたことはすべて自分のためではないでしょうか? まだ自分の手柄を自慢するのでしょうか? これも一種の師父を信じて法を信じ、師父と大法を尊敬する問題だと私は思います。師父の加護がなければ、私達はここまで歩んでは来られません。

 2008年3月24日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/3/18/174525.html