日本明慧
■印刷版   

修煉の中に低い姿勢を保つべき

(明慧日本) 修煉する人がもし、いつも自分を高く見て、いつも自分を同修の上に位置づけ、問題やトラブルに遭ったときは外に向けて、いつも自分が他人の向上のためにしていると思い、内へ向かって探さず、自分を律したくない、他人の欠点に対して、一発的中に言えるが、自分を照らし合わせたがらない。自分に同じような執着心が存在しているとき、同修が問題を見せてくれたとは思わない。さらに極力自分を覆い隠して同修の向上を一生懸命「手伝う」。これは法を実証することではなく、自分を実証することになるのです。

 たとえば、ある同修は生活の中でとても大きい魔難に遭い、苦しい経験をしばしば経て、執着を放下し、師父の慈悲なる加護の下、ついに突破して乗り越えた。これに対してある同修は、「このことを見ると私が彼との交流に役立ち、私は誰々と一緒に彼に話したので、やりがいがある」と言う。口ではすべて師父がされていると言うのですが、しかしその言葉の裏には自分の功績を弁明している。即ちあなたがこの魔難を乗り越えることができたのは、私の功労があったからだと言う。実は、たとえあなたの話が同修に対して役に立ったとしても、やはり師父の按配の下で成り立ったものです。ましてプラスばかりの話とは限らない。真相説明のプロジェクトで同修を助けた時、他の同修の前でわざとらしく自慢げに、「Aさんは私に教わってできた。Bさんはもともと小冊子と宣伝ビラしか配布しないが、今は『9評』も作れて配布するようになった」と漏らす。とにかく同修の向上はすべて自分のお陰で、同修の上に立っている心がある。自己弁明自体はとても強烈な自我を実証する心であり、宇宙の中ではすべてが見ているから、弁明する必要はない。

 最近、相次ぎ、私の前にこのようなよくない心が現れた。つい最近、明慧ネットに掲載された文章で、自分を同修の上に位置づけしないようにとの文章があり、私の兄も私に注意して、「同修の文章はよく書けているね。自分を低い姿勢にしなければ、本当の意味で内に向かって探すことをやり遂げず、謙虚に他人の意見を受け入れることができない。これこそ心性を向上する肝心なところだ」と話した。私は「はい!海は百川を受け入れ、それは自分の位置が低いため、百川を受け入れる度胸があることです」と頷いた。後の集団学法中でも、法を実証するプロジェクト中でも、同修と交流しあう時も、私はいつも自分に注意してこのようなよくない心を無くすようにした。

 しかし、最近同修は、いつも私の前でこれらの心を表し、私はとても気分がよくありませんでした。それで私はきっと自分が無くさなければならない心があるのだと思って、内に探し深く自分を分析し、本当に探し当てることが出来ました。私の両親は私と同じく2001年に大法に巡り合いました。両親は今年76歳で、3つの事をすべて私が一緒に行う。一部の法理に対しても、同じくいつも私が悟ってから両親に教え、両親も私を認めています。次第に私も慣れてしまい、すでに同修の上にいる心が生じました。しかし、気づいていませんでした。もし同修が何かの事かで心性が高まったら、同修のために喜び、同時に心の中で急速に「私が繰り返し忠告したお陰でできたのでしょう?」と閃く。ただの一瞬ですがこの自分を実証する心がやはり無くされていないのです。ただ同修といっしょにいる時に、この心を抑えただけで自分の身内の前ではしっかり現われました。

 ですから、自分の一念でも油断することはできない。いかなる人心を持っても天国には行けない。同修のどんな心を見ても、是非自分と照らし合わせてください。きっと同じく自分がなくさなければならないことがあるのです。一部の心がとても深く隠れているのです。師父がいろいろなトラブルを利用してそれを露呈させ、私達にそれを取り除かせてくださっているのです。肝心なポイントは、私達がくれぐれも覆い隠してはいけないということです。くれぐれもこれは同修の心で、自分とは関係ないと思わないでください。内に向かって探すことを空論にしないことです。他人が修めてよくなっても、あなた自分自身はどうなるのですか? これでは、本当に内に向けて探し、善意を持って同修を助ける同修には当たらないのです。

 個人の悟りであり、妥当ではない部分はご叱正ください。

 2008年4月23日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/4/17/176578.html