日本明慧
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「最後の最後」から思ったこと


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)最近明慧に載っていた同修・浄蓮さんの体得文「最後の最後」(4月11日交流文章)を二度読みました。初めて読んだときは、ただ文中で話している同修に残念だと思っただけで、こんな問題もあるのだなと、自分には関係ないように思っていました。今日二回目を読んで、自分も内に向かって探してみれば似たような問題があるかもしれないと、突然気づきました。よく考えてみればやはりそうでした。私が間違った道に入ったのはまさにこんな心があったからです。これは仕事に対する執着心であり、はっきり言えば、自分がどのくらい仕事をやったのか、その量に執着し、もう休んでもいいという自分自身を出発点とした心で、法理に基づいた認識ではなかったのです。結局自分のためという人間の心なのです。

 我々は何のためにこの俗世に来ているのでしょう? 我々は衆生を救う誓約をし、使命を持って来ているのです。まだ救われていない人がたくさんいるのに、何の理由で人を救う足を止めようとしているのでしょう? 大法弟子として、我々個人の円満はもう問題ではありません。今は人を救うことだけです。これはまるで当時の岳家軍のように、我々は人それぞれ特技を持っている将兵であり、今もう少しで黄竜を倒せるのに、まだ数多くの衆生が塗炭の苦しみに遭っており、邪悪の頭もまだ徹底的に法律により裁かれていないのに、大功が間もなく完成を遂げるという理由で人を救う足を止めるのでしょうか? 元帥もまだ軍隊を引き上げる令を下していないのに、私たちは自分の考えで決めるべきではないのです。簡単な例を挙げたのですが、同修たちはすぐに分かるようになるでしょう。

 自分の修煉の過程を回想してみれば、ずっと上がり下りの状態でした。しばらく精進したら次は止めてちょっと休んでいました。まるで学生時代に、しばらく一生懸命勉強したら週末には映画を見たり、音楽を聴いたり、遊んでからまた勉強をしていたかのようです。長い間、間違っているとは思わず、後でよくないとは気づいたりもしましたが、それ以上は思わなかったのです。最後に邪悪に弱みに乗じられ、損失をもたらされたからこそ、苦痛の後にそれを思い出して問題を重視し、根を掘るようになったのです。しかし、今現在もこんな状態から完全に抜け出すことができず、まだ安定した状態で三つのことをやることができていないのです。今日は多分師父が私のこの執着の根を掘り、この間違えた状態から突破させようとされているのでしょう。

 あの時は仕事が忙しかったけれど、三つのことも一生懸命行い、個人の資料点も設けたうえ、最後には広範囲に真相を伝えました。そもそも安全で、無事でそれなりの効果がありました。しかし、その後私は自分に休暇を与え、心から油断してしまい、しばらく法の勉強もせずに、ほとんどの時間を自分が好きな、常人の執着につぶしてしまったのです。たまには三つのこともしていましたが、それも形式的にただ対処するだけでした。そのとき心はもう常人で、法に基づいてはいなかったのです。そのため、偶然で何でもない小さいことで、私は邪悪に口実を捉えられ、もともと安定していた仕事と修煉環境を失ってしまったのです。未だに、生活上の貧困から抜けられずにいるのです。真相を伝えて人を救うことにも余計に難しさをもたらしています。

 私は、文中で言っている同修が天目で見たものと、自分で悟ったもう円満したから三つのことを止め、家で、一人で修煉しようとする執着の根源は、私のこの問題と同じであり、ただ違う形で現れただけだと思います。これはすぐには気づかない歓喜心で、顕示心、自慢の心、仕事に対する執着心であり、魔に弱みに乗じられやすいのです。師父は前から、修煉は最後まで足を止めてはいけない、止めることなく内に向かって探し、自分のこの心を修めよとおっしゃっています。問題に逢ったとき、誰かが(常人であれ、同修であれ)問題を指摘したときは、必ず忘れずに内に向かって探さなければならないのです。何故かといえば、何の問題もなければそれを指摘する人すらいないからです。このときは絶対師父の法の文章の断片から意味を取って、自分の執着を隠してはいけません。同修たちよ、我々は常に、自分は法に基づいているのか、法を一番に思っているのかを自分に問わなければなりません。つまり、たとえ自分が円満したとしても、我々が学んだのはこの限りない佛法の中の一部分です。これだけ偉大な佛法をなぜ今この時、もっと学ばないのでしょうか? もっと勉強した方がいいのではないでしょうか? なぜ本を置いてしまうのでしょうか? まさに当事者はかえって事態の見通しがきかないので、同修達に、生活の中或いは歴史の中で簡単な事例を挙げ、簡単な道理で同修を呼び覚ますことを提案します。こんな状態を持続して、邪悪に弱みに乗じられないよう、くれぐれもお願いいたします。なぜならば、邪悪は我々を駄目にすることを目的としているからです。

 今まで、自分はとてもよく行えてはいませんでした。しかし、今日この問題が同修達の役に立つのではないかと思い、自分の認識を書き記しました。同修達ができるだけ早く目覚めることを願っています。

 個人的な体得なので、不適当なところは、ご指摘をお願いいたします。

  2008年4月24日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/4/16/176556.html