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河南の法輪功修煉者・姚三忠さんが迫害され死に至った情況(写真)

(明慧日本)労働教養所での長期にわたる迫害によって、姚三忠さんの体は過酷な蹂躙を受けた。彼の身体は急速に衰え、ベッドの上で動けなくなり、食べることさえ出来なくなった。労働教養所は責任を逃れるため、2002年12月末、苦しんで息も絶え絶えの姚三忠さんを担ぎ出すと道端に投げ出した。姚さんの家族は姚さんを担いで帰り、病院に連れて行った。病院での緊急処置の際,医師は驚愕した。まだ34歳にもかかわらず、姚さんの全ての器官は衰弱し、その機能は失われ、既に治療することは出来なくなっていた。姚三忠さんは2003年1月中旬,冤罪が晴らされないままこの世を去った。


 河南省トウ河市の芸術師範学校の音楽教師であった姚三忠さんは、34歳、男性、大学の本科を卒業した。法輪功を修煉して以来、万事自分に厳しく要求し、いたるところで他人のために考え、思想道徳は絶えず昇華していた。姚三忠さんはとても活発で若く才能豊かな音楽教師であり、人に接するときは優しく、三所の住人に姚三忠さんの話をすれば、皆感心してほめたたえ、すべての人が彼は本当にいい人だと言う。

 苦しみの中でも、彼の関心は他の人のことばかりであり、姚三忠さんは自分の一生で1人の大法修煉者としての浩然の気と純潔を示した。自分の行為で法輪大法の素晴らしさを実証し、驚異的な力で拷問による苦痛を耐えぬいた。それは彼を迫害した警官さえも思わず感服した程だ。

 1999年7月20日、法輪功が中国共産党政府により不法な取り締まりを受けた後、迫害された真相をはっきりと説明するため、1999年10月、北京へ陳情に行ったが、その後トウ河の公安に現地まで連れ戻された。勤務先では、副校長の張建国の指図のもと、守衛の保安人員、倪雲峰と牛春雨が姚三忠さんを殴打。姚三忠さんの眼鏡は飛び、その上碗で強く頭部を打たれた為、碗はすべて打ち砕かれた。その状況は悲惨で見ていられないほどで、姚三忠さんは7日間絶食し抗議した。

 法輪大法の修煉を堅持したため、姚三忠さんはトウ河市公安局の留置所に不法に拘禁された上、2000年7月、河南省トウ河「610弁公室」およびトウ河市公安局に三年間不法に労働教養を科され、河南省許昌市の第3労動教養所に拘禁された。

 2001年3月21日、労動教養所の邪悪が大法を中傷した時、彼と10数人の法輪功修煉者は会場で「法輪大法好」と叫んだ。警官らは彼らを外に引っ張り出し、狂暴に殴った。その時、セメントの床の上に、一塊の血が流れたが、警官は直ちに他の教育人員に指図してきれいにし、他の人に見られないようにした。姚三忠さんは連続して8回、縄での残虐な拷問を受けた。縄が筋肉にくい込むのは耐え難い苦痛で、また高圧電力棒での電撃や数人で殴ったり蹴ったりされた。警官はまた1人の麻薬犯に、ビニール・サンダルの底で連続2日間止めることなく姚三忠さんの顔を叩くことを命令した。そのため彼は何日も正常に食事をすることができなくなった。最後にまた不法に10ヶ月間刑期をプラスされた。 

 会場で殴られた他、後で2大隊の警官は1チーム200人の受刑者を組織して姚三忠さんに対し、いわゆる「教育」を行った、つまりすべての者は必ず厳しく姚三忠さんを殴らなければならず、打たない者はその場でやっつけられるのだ。姚三忠さんは殴打され見る影もないほどになった。しかしずっと微笑んで、殴り返さない。ののしられても、ののしり返さず、法輪功修煉者の気高い品性を見せた。労動教養所のいわゆる「春風のような暖かい関心」もはっきり見えた。良心のある受刑者は上からの命令で仕方なくほんの少し叩いた。心の中ではおわびの気持を言いながら、同時に法輪大法の素晴らしさを知った。今回の悪事を働いた組織者は2大隊の教育員、朱金奎、副大隊長の鄭琦などである。 

 この事件後、姚三忠さんの声はかすれ、声が出せない。原因は、多くの法輪功修煉者が各チームに帰った後、姚さんがまた残酷な拷問を受けたからである。1大隊に所属する警官は姚さんが音楽の教師であることを知っており、彼の声はとても優れていたため、もっぱら足で彼の喉の部位を蹴った。そして姚さんの声帯にはひびが入るに至り、彼は声が出せなくなった。姚三忠さんは労動教養所でずっと邪悪の命令や指図すべてに従わず、転向書を書かず労働教養服を着なかった。警官は怒りと恨みで、いつも電気棒で電撃し、捕縛縄で縛った。しかし警官は疲れても姚三忠さんの心は動かない。その後、警官は電気ストーブであぶるという残酷な方法を思いついた。

 2001年9月、姚三忠さんはまた数人の警官らに殴られ、電撃、縄の刑などを受けた。原因は、労動教養所は法輪功修煉者の話を許しておらず、姚三忠さんが他の人と少し話をしたためであり、3大隊2中隊の趙と言うリーダーにより残虐な拷問をうけた。

 2002年5月、警官らはまた姚三忠さんと他の修煉者に教養服を着るよう強制したが、姚三忠さんは断固として拒否し不法拘禁を承認しないため、また残酷な迫害に遭った。警官は連続して姚三忠さんを5回縛ったため、肢体は麻痺し、何ヶ月間も自立した生活ができなかった。警官は強制的に彼に労働教養服を着させ、それを脱がないように、別の受刑者と姚三忠さんを一緒の手錠につないだ。その受刑者はわざと彼に不便をもたらし、万事至る所で彼を苦しめ、甚だしきに至っては小便も許さない。この方四軍と言う受刑者の行為は周囲の多くの人の憤りを引き起こした。しかし中国共産党の警官は、方四軍はとても「すばらしい」と承認した。

 姚三忠さんは河南省第3労動教養所で、日常茶飯事に、縄の刑、電撃を加えられた。2002年後半、許昌労動教養所の所長エン振業、労動教養所の副所長曲双才は、意志の堅い「真、善、忍」の修煉者に対してまた何回も狂ったような迫害を行うよう指揮した。彼らは4人の犯罪者を利用して1人の法輪功修煉者を監視し、食事や便所へ行く時もずっと離れず、少し思い通りにならないと欧打し、ののしる。姚三忠さんはこの極度に恐怖のあふれた収容所の中で、精神的にも肉体的にも苦しい労働の迫害に耐え、終には冤罪が晴れないままこの世を去った。労動教養所から担ぎ出される数日前、姚三忠さんは極度に衰弱した身体を引っ張られ、感覚が麻痺した力のない両手で夜中の2,3時まで奴隷のように仕事をさせられた。

 このようにして、1人の「真、善、忍」の宇宙真理を信念する罪のない人であり、何事も正直に話ができる有為の青年教師は、その両親や妻そしてまだ4歳の息子の元を離れ、彼の学生と心から愛する音楽の仕事からも離れた。 

 2008年4月24日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/22/176977.html