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学法の際の正しくない考え方と念を直すように注意しよう


 文/広東省湛江市の大法弟子

(明慧日本)法を読み、暗記する中で、時にはある文は語呂が良くない、あるいはあまり文法に合わないと思ってそこで止まって、多かれ少なかれ納得できないと抵抗の気持ちが生じる同修がいます。以前、私もこのような気持ちになりました。

 師父が語ったように、法の中で語ったように、私達はそのように暗記するべきです。法を読み、暗記することは、師父をまっすぐに信じること修煉に対する真の心を検証する過程でもあります。「開眼」を例とすると、考え方と境界が異なる和尚はやったことの結果も違います。学法も同じく、文字と文法自身が表す意味は表面的で単一的であり、その背後にある本当の内包、この上ない法理は他の空間で現れるのです。この法理は一念ですぐに成せたものもあるので、人間が使う言語で表現すると現代文法に合わない場合もあります。ですから私達は学法の時、「この文はあまり通じていない、あの文のつながりがよくない」のような考え方を捨てましょう。さもないと、現代化された佛教学者らが彼らの宗教である佛法を「批判しつつ学ぶ」こととどこに違いがありますか。修煉そのものの意味さえよく理解できていないことになります。

 時には偶然に本を開いて、今日あなたが持つ疑問を教化する文と出会うかも知れません。大法は立体的かつ円容的なもので、師父が語られた短い一語でも我々が生活の中や修煉の中で出会うすべての問題を指導することができます。大法の1つの文字でさえあなたを悟らせることができるのです。一人の神が手を振ったら全人類の病気はすべてなくなり、一人の大覚者の一念で宇宙が誕生するのに、大法の一文字に佛、道、神が宿らないはずはないでしょう。法を学ぶ時、もし我々の心がとても清浄かつ敬虔で、大法と「交渉」をしなければ、そして心性もその境界に到達すれば、法の一文字だけでも充分に私達に異なる次元の法理を教化させ、悟らせることができると思います。修煉者はまた本の中に何を求めたいのですか。また文字と文法の面で何を琢磨したいのですか。求めずに得るのです。

 興味深く書かれても、あなたの思想に合致する道理をたくさん語っても、あなたがいくらその本を習熟しても、本の中に佛、道、神がいなかったらあなたを高次元へ指導することができません。同じ経書に対して、修煉しない人は何も見えないし読んでも何も分かりません。私は、学べば学ぶほど深く大法のこの上なさと偉大さを感じるのです。

 以上はあくまでも個人の少しの感想で、間違いのあるところはご指摘ください。

 2008年4月27日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/24/177073.html