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「私」(し)について再論

(明慧日本) ある静かな日、思い出したように、突然 「私」(し)に対する認識を深く感じました。世の中にいて、なぜ辛酸苦楽の思いがあるのか? なぜ苦しさを感銘するのか? なぜ物事に対して気になってしまうのか? その感触はなぜ発生するのでしょう。原因究明すれば、やはり「私」(し)があるためです。

 「私」(し)は人の身体に付いている刃物のようで、少し触っただけでも傷がつくし、喜怒哀楽も伴い、さらに人を迷わせます。

 「私」(し)がある限り、超然とならず、平気でいられなくなり、私心の拡大は生命を堕落させて最後に消滅に向かわせる。「私」(し)を無くす過程は生命の昇華する過程です。

 大法の修煉は『真・善・忍』』に則って、最後に無私無我、他人を優先し自我を後にする覚者となり、言わば法は「私」(し)を許さないことです。

 生命は「私」(し)があるだけで、この生命がすでに純粋と言えず、一部が『真・善・忍』の宇宙の特性と対立していることだからです。直ちに正さなければ、その「私」(し)は毒薬のように少しずつ人を浸食し、次第に人を壊してしまい、その生命の表面は、ますます法の要求から反れることなのです。

 浅い認識なので、妥当ではないところをご指摘ください。

 2008年4月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/4/19/176689.html