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「忙しい」について


 文/遼寧大法弟子

(明慧日本)「忙しい」という言葉は、日常生活においてよく使われる言葉です。

 常人でも修煉者でもよくこの言葉を使っています。

 常人にとっては、生活の中で誰でも忙しく行っていることがあり、また、それらのことについての優先順位など特に強制的な制限はありません。

 しかし、この言葉は修煉者の私たちにとっては別な意味があります。修煉者は常人よりも多くの仕事をこなさなければならないので、忙しい中で個人の利益と修煉者のやるべきこととの矛盾が生じた場合、その優先順位を決める選択の問題があるのです。

 もし、個人の利益を優先する場合、自分のことをしなければ損失が生じると感じる人が多いと思います。しかし、個人的な認識としてこの「忙しい」はさまざまな常人的な考えや、執着を隠すための言い訳に過ぎません。この「忙しい」を名目によくない心を覆い隠してしまうのです。

 一方、もし法を優先する場合、法を実証することや、衆生を済度することが何よりも重要と考える時、心の中には「私」(し)がなく、思想や心性が高くなります。たとえ個人の利益として何かを失ったとしても、気にする必要はないと思います。自分が得られるものを考えれば、修煉者なら誰でもわかることです。

 現在、修煉者にとってこの「忙しい」が特に重要だと思います。「忙しい」を通して、うまく常人社会の中での生活や修練ができることは、仕事を通して大法の素晴らしさを表現でき、限られた時間の中でもっと多くの衆生を済度し、法を正すことができるはずです。皆さん、「忙しく」なりましょう。今、農村部の修煉者たちは、田植えの時期で一番苦しくて疲れる時です。自分が「忙しい」からといって、やるべきことを忘れないようにしましょう。

 私たちの使命、責任の誓約が現実的なものとなり、師父の期待を裏切ってはなりません。

 教育を受けたこともなく、浅い認識であるが、全体のレベルアップにつながることができれば幸いです。これも大法修煉者の責任であるのです。ご意見、ご指摘ください。

 2008年4月28日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/25/177151.html