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7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(一の上)

(明慧日本)[編集者コメント:正法時期に、多くの大法弟子は黙々と遠い昔に師父と結んだ約束を果たしている。約束を果たす過程は時にとても苦しく困難がある。これらの困難は当初自分がはっきりと知った上で自らの意志をもって引き受けたのではないか。資料点の同修もいつか振り返って見る時、きっと今日の重い気分と違う気持ちになると信じる。俗世の中で資料点はとても大切な存在であり、世に知られないながら、大法弟子が務める仕事全体の中で不可欠な存在であり、資料点の稼動状況と資料点の同修の修煉状態は、各地で真相を伝えて大法を実証する仕事全体に直接影響している。この文の掲載によって、資料点の同修が他の同修からもっと多く正念の支持を得て、より良い状態に切替えられ、資料点が更によく営まれ、みんなで大法弟子の歴史的使命をよりよく果たすことができることを願う]

 私は中国農村部の大法弟子です。昨年、吉林地区の同修が書いた「長年実修を重要視しない問題、及び長期にわたり同修の援助を願う問題—吉林市の現状についての交流(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2007/8/14/160724.html)」とネットに掲載された同じ類の文章を読んで、いろいろ考えました。そして、近隣地区で絶えず多くの資料点の同修が逮捕されました。中には数年前から知り合った同修もいます。それゆえに筆をとってこの文章を書こうと思い立ちました。

 数年来、私の修煉生活はほとんど資料点で過ごしたので、中国国内の資料点及び資料点にいる同修の修煉環境について比較的分かっています。一方、私自身が約8年間資料点で修煉してきた体験を経たとしても、これから書く文章はすべて資料点の同修の考えを代表できるわけではなく、あくまでも私個人の修煉の歩み、心得と心性の現れに過ぎません。

 資料点に入った由来

 2000年末、地元の「610弁公室」が多くの「洗脳クラス」を造り、多くの同修が「洗脳クラス」で妥協して帰って来ました。それを見て私の心の中はとても焦って苦しかったのです。地元では男性の同修の人数が少なく、私は少数の男性の同修の中で比較的若い1人です。昔の指導員を含め、何人かの男性の同修は強制労働教養処分を受けています。この時私は市に行って、どのように当面の悪い情勢に直面すべきかについて、昔、調整役を担当した同修たちと検討しました。ある同修は、今ちょうど資料点を一つ造ったが、担当できる人が見つからない、貴方はこの仕事を担当できるかと私に聞き、私は即座に承諾しました。この同修はまた、資料点の安全は一大問題で、つまりいったん資料点の仕事に関与すると、家庭と仕事にも影響し、生活も今のように自由にできなくなり、出入りも注意しなければならない、と言いました。当時私は地元で自分の店舗を持っており、商売も繁盛していたので、この同修は、長期に資料点で頑張ると店舗の運営にもきっと影響するので、本当に大丈夫かと聞きました。実はその時期、私は本当に商売をする気になりませんでした。私は、それは問題にならないと答え、同修は1週間の考える時間を与えてくれました。1週間後、私は少しの迷いもなく資料点に行きました。この同修はそれから資料点のパートナーとなりました。とりあえず彼を「大偉さん」と呼びましょう。

 当時、私は「家に帰れず、仕方なく異郷で暮らす」という意味を考えたことがなく、たくさんのことを考えておらず、ただ一つ、何があっても自分の責任をしっかり担っていく、それが当時の唯一の考えと最大の願望でした。私は地元で商売をやったため知り合いが多いので、資料点からの出入りを控えて、家にもほとんど帰らないようにしました。これがたぶん私の「家に帰れず、仕方なく異郷で暮らす」ことなのでしょう。

 最初の資料点での生活の思い出

 私は当時商売に投資したため少額の貯金しかなく、全部資料点に持ちこんで生活費としました。
 
 今も覚えているのは資料点での最初の昼食です。資料点に着いた初日の昼ごろ、大偉さんは間もなく昼食を作りました。彼は麺が入った大きなどんぶりを2人の目の前に置いて、腰を下ろしました。おかずがないか、と私が少しためらっているうちに、彼はもうどんぶりの半分も食べていました。麺の中には少量の油、塩、使い残しのインスタントラーメンの調味料しか入っておらず、私は大いに我慢しながら麺を飲み込みました。これがその後私と大偉さんが良く食べるものになりました。実は、私の最も嫌いな食べ物は麺類で、小さい時から麺類を見ると食欲がすっかり消えてしまうのです。

 初日の夜、大偉さんは家に帰って、私1人が資料点に残りました。帰る前に大偉さんは1冊の印刷機の操作手順書を渡して、「僕もあまり分からないが、貴方はじっくり読んで」と言いました。私の仕事は印刷機の操作なので、時間があればこの手順書を繰り返し読んで、実践しながら模索しました。それからこの印刷機が老朽化して使えなくなるまで、全てのメンテナンスは私1人でやってきました。

 当時、法輪功に対する弾圧はとても深刻な時期だったので、資料点にいると、いつの間にか無形のプレッシャーと恐れを感じました。近くにパトカーの音、隣の家の扉を叩く音などを耳にすると、不安になって落ち着かなくなります。ある日の夜、大偉さんは家に帰りましたが、急用のため夜中に資料点に戻って来ました。その時私は布団の中に入っており、最初の扉を叩く音を耳にした時、まったく銃の音が聞こえたかのように緊張しました。大偉さんが以前注意したことを思い出しました。「扉を叩く人の身元が分からない時は、絶対ドアを開けてはいけません」。私はその通りにして絶対開けないと決心しました。大偉さんはしばらく扉を叩いてから、近所に迷惑をかけないため、窓に小石を投げました。小石は窓ガラスを「パ、パ」と打ち、それはまったく自分の胸元を叩かれたようでした。私は依然として電気もつけず声も出しません。今度は、彼は塀を越えて庭に入り、部屋のドアを叩き始めました。私は、しまった! 悪者はすでに部屋の前まで来たと思いました。ドアを開けて電気を点けると、おや! 大偉さんじゃありませんか、やっと落ち着いて見ると、額に冷や汗が出ていました。

 実は、当初大偉さんが私に1週間の考慮時間を与えた時、私の「すべて」を考えました。「生」と「死」も。その時期にはまだ正念とか、旧勢力を否定するとかがあまり分からなかったのです。資料点に来た初期に一つ感じた最大のものは、押さえても押さえ切れない「恐れる心」でした。特に夜になると、万が一、ある日資料点が見つかったらどうしようかと思い、それに対処するための種々の方法も考えました。このような状態は半年も続きました。当時、資料点が見つかれば私に対する迫害も「格別に深刻になる」という間違った考えを抱いていました。すべての方法を考え尽して、最後に残った邪悪に対処する方法は「生死を捨てる」ことでした。ここまで思いいたると、その「恐れる心」が消えてしまって、あっという間に楽になりました。

 この時を振り返って見ると、資料点に来た最初の半年は、実は生死を捨てる過程でもありました。当時、これが私の唯一の正念でした。人間レベルの好運を願う心を抱かずに、生死を捨てて平然と資料点の仕事をしました。その時「恐れる心」はとても重かったのですが、撤退や、止めることを少しも考えませんでした。自分の選択が最も正しいと確信しているので、選んだ道を最後までしっかり歩み通すつもりでした。今の私は、師父が語られた、「修煉は高い次元で見ると選択そのものです」(翻訳者コメント:これは師父の元来の言葉ではないようです)の意味をもっと理解できるようになりました。修煉者は神のように、「神が見定めた道なら、最後まで歩み続けるのです」(『導航』『北アメリカ五大湖地区交流会における説法』2000年12月9日)。

 困難と再スタート 

 半年後、かつて私達の資料点に来ていたある同修が逮捕されて、私達のことを警察に教えました。資料点の仕事はこれで止まり、私もしばらく資料点を離れました。間もなくある日の夜、私は賃貸住宅で警官に連行されました。昔ここに住んでいた同修が逮捕され、警察にこの場所を教えたので、警官はすでにここで1カ月以上待ち伏せしていたのです。その時、私はとても大きな苦難に遭い、多くの一般受刑者に「死に至る」ほど、残酷に殴られたことがあります。

 刑務所から出て再び自由になった後、自分の状態を整えるため、私は転々として異郷の同修の家に行きました。そこには折よく大偉さんもいました。数カ月が過ぎた後、一緒に故郷に帰ってもう一度資料点を設立しないかと大偉さんは私に聞きました。当時、私の状態はそんなに安定しておらず、即座に大偉さんに応じませんでした。それで大偉さんは1人で帰りました。しかし、思いも寄らないことに帰った翌日、彼は尾行されて捕まり、すぐに不法な強制労働教養を受けました。私は長い間悔やみました。大偉さんはその後牢獄に拘束されましたが、屈したことがないようです。大偉さんは自分の選んだ道をきっと悔いることはないと思います。その時、私は大偉さんが持つ自己献身の佛性を深く感じました。

 数カ月が経って、私は十分回復しました。それで自然に同修と一緒に地元で新しい資料点を造り上げました。資料点ができる前は、私はとても落ちついた状態でしたが、本格的に稼動し始めると、迫害されたことから生まれた「恐れる心」がまたひっきりなしに沸き起こりました。しかし、その時に大法弟子としての使命感と責任感がすべてに打ち勝ちました。「資料点の同修はやはり『恐れる心』が少ないね、そうでないと彼らは資料点を維持できないよ」とよくこのように言う同修がいます。実は、このような話を耳にする時、私の気持ちはとても複雑です。根本的なことからいうと、こう言う同修は自分を他の精進している同修と同等に求めておらず、自ら精進しない道を選択したというしかありません。

 再び同修と資料点を設立した時、時には「恐れる心」が相当強くありました。それは明らかに邪悪が一生懸命私の思想に「恐れる」要素を詰め込んだからです。表面上、私は一日中元気が出なくて、思想業がとても大きくなる様相を呈しました。当時大法の法理に対して今ほど理解できず、自分が再び迫害を被る結末をよく想像しましたが、一度も資料点から撤退する考えはありませんでした。毎朝目が覚めると、第一に、もし私が再び捕えられたら、命をかけても法輪大法を守ることができるか? 生死を捨てることができるか? と自分自身に問いかけます。長い時期を経て、私は「できる」という確実な回答を得てからやっと安心して、顔の表情も穏やかになりました。その当時、2、3カ月毎に周辺の資料点に不祥事が起こっていたことがよく耳に入りました。聞く度に、もし警察に見つかったらどうするか、と自分も自然に考えたりします。「恐れる心」がひどかった時期、印刷機の音を聞くとすぐ緊張して、呼吸のリズムも乱れたりしました。心の中には完全にプレッシャーがないのではなく、このプレッシャーを恐れない、即ち自我を捨てる、ということです。

 今回新しく設立した資料点は農村にあり、建築後50年以上にもなる老朽化した土造の家にあります。印刷機の騒音を近所に気づかれないように、私達は少し高い鉄製のベッドを造り、ベッドの上に野菜を搬送する時に使う保温布団を掛けて防音効果を図り、下に印刷機器などを置きました。毎回資料を作る時、私はベッドの下に潜って、機器を稼動させ、同修に外から扉を施錠するように頼みました。この資料点の操業状態はとても粗末でしたが、周辺の四つ、五つの地区の千人以上の同修への隔週発行の小冊子と真相資料の製作を担ったのです。

 (続く)

  (資料点):中国共産党の法輪功への弾圧が激しくなる中で、各地の法輪功修煉者によって自発的に設立され、真相資料などを作製する拠点のこと。

 2008年5月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/4/24/177105.html