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7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(一の中)

(明慧日本)

 資料点での生活と仕事の艱苦

  資料点と接触したことのない同修は、よく資料点をユートピアのように想像しているかもしれません。実は、たくさん資料点に来たことのある同修はあまりにも苦しい生活に耐えられず資料点を離れました。もちろん資料点もそれぞれ異なるところがあって一概には言えないし、各資料点の置かれる環境、当事者の同修自身の状態にも関係しています。 

 その後必要に応じて、私は二つ目の資料点から遠く離れていない、設立して間もない新しい資料点(三つ目)に移動して、二つ目の資料点をやめました。数年来、私の大半の修煉生活は三つ目の資料点で過ごしたのです。この資料点は何度もの引っ越しを経て今日に至りました。

 資料点と同修の日常生活について

 私どもは仕方なく家を出て異郷で生活しており、当時みんな貯金を持っていません。何度も迫害に遭い、家族が理解してくれない同修もいて、生活はとても窮迫しています。

 当時その資料点では人数が一番多かった時でも4人で、それからずっと3人の同修しかいませんでした。その時私だけが比較的実家に近いので、家に真相資料を運ぶ時についでに小麦粉と油を持って帰ったりしました。特に冬になると食物は保存しやすくなり、母は一気に1週間分のマントー(小麦粉を練り、発酵させて蒸した蒸パンの一種。北中国でよく食べる主食で、あんが入らず、味付けもない)を作りました。時には白菜も資料点に持って帰りました。家に帰る時間がない時は、50キロの白菜を買って越冬しました。こんなに多く白菜を買うのは白菜が好きなのではなく、農村で白菜が最も安い野菜だからです。一冬に他の野菜がなく、毎日白菜を食べました。それでも毎食白菜を食べられたら幸せですが、菜種油を節約するために漬け物だけを食べる時もありました。

 冬は食物が保存しやすくてまだマシな季節ですが、夏になると家からマントーを持ってきたらすぐ悪くなってしまうので、買ってくるしかありません。安全を図って出入りの回数を減らすため、一度に多くのマントーを買ってきます。一日で食べ終わらないと翌日にはマントーがすえてしまいます。夏にすえてかびが生えたマントーを食べるのはよくある事です。悪くなったマントーでもいくらまずくても同修は惜しんで捨てることはしません。

 夏場のある日、全員が家に資料を運びに帰って、食べきれなかった麺類を残しました。出かける前に窓と扉をしっかり閉めたので、翌日夜に帰って来た時は麺類にはすでにかびが生えて腐敗して、上に気泡が浮いていました。しかし、これでも捨てたくないので、私はどんぶりを持ちあげて、呼吸を止めて飲み込もうとしました。飲み込んだ途端に麺が喉を逆上して、吐き出しかけました。それを同修が見てどんぶりを取っていき水で少し洗ってから、大口で飲み込みました。

 夏は基本的に生水を飲んで、ご飯を冷たいまま食べます。これは夏の過ごしやすい一面です。

 ある日、母は私のために小麦粉を炒めました(中国では小麦粉を炒めて保存食を作る習慣がある。塩、砂糖、砕いたピーナツ・クルミを入れる時もある)。その日の晩ご飯に資料点のみんなは炒めた小麦粉にお湯を入れて、スープを作りました。同修がどんぶりを持ってきて、これは何ですか、と聞きました。私はぱっと見て、母が小麦粉にゴマを入れてくれたかと思いましたが、どんぶりの水面にはたくさんの死んだ小さい虫が漂っています。母が使った小麦粉に虫が生えていたと分かりました。母は70歳を超えていて視力も悪くなり、きっと虫を発見できなかったのでしょう。私達はスプーンで虫を取ってスープを飲みました。あまり食べ心地は良くありませんが、捨てるのは惜しいのでとりあえず小麦粉を保存しました。なかなかそれをきれいに処理する時間がなくて、数カ月経つとまた粉の中にたくさん新しい虫が生まれました。私は2時間を費やしてピンセットで1匹1匹小さい虫を取り出して、早めに炒めた小麦粉を食べ終わりました。

 数年来、市場に野菜をめったに買いに行かないので、行く回数もはっきりと覚えています。買う時はキロ単位で買うのではなく、いつも一山1元、或いは1袋1元で買います。実はその野菜は普通の人が見ると目もかけないほど悪く、野菜畑でも拾えるものでした。

 数年来、私達は一回も肉を買ったことがありません。新年や節句の時に家族が美味しい食物を少し分けてくれたり、若しくは地方の同修が来る時に特別に二品ぐらい惣菜を作ったりすれば、とても満足するのです。

 果物を食べる時もあるが、主に腹を満たすため 

 ある日、同修はぼろぼろになった桃をたくさん買ってきました。夏は保存しにくいのに、どうしてこれだけ多く買ったのかと聞くと、同修は、とても安くて全部で2元なのでマントーを食べるよりも安いし、これで食事を作らなくても、お腹がすいたら桃を食べたらよいと答えました。実はこれらの桃は売れなかったら店で捨てられるものでした。

 またある日、同修は少し古くなったりんごを買ってきました。ちょうどその時1人の協調人が私達の資料点に来たので、同修は比較的良いリンゴを1個協調人に渡しました。しかしこの協調人は、たとえりんごを食べられなくても、こんなものは絶対買いませんよと言いました。私達はただちょっと笑っただけです。この協調人は「在宅同修」で、私達とよく連絡しますが、私達の生活の実情は知りません。これらのリンゴは私達が腹の足しにするもので、彼女が思う味の嗜好に執着しているわけではありません。

 それを述べたのは、資料点の同修がなんとすごいのかを言いたいのではなく、ただ真実の一面をもっと多くの同修に知ってほしいので、それなりの意義があると思います。

 地方の同修から聞いた話です。ある資料点では4カ月連続して一枚の野菜も食べていない時がありました。またある同修は資料点で半年も肉を食べていなかったので、執着心が大いにわきました。ある日買い物をした時、ついでに豚の頭の肉を少し買って、歩きながら食べました。本当に我慢できなくなったと彼は言いました。彼の話を思い出すたびに私はとても悲しくなり、笑ってはいられませんでした。

 資料点で食事をめぐって騒いだこと 

 その時、ある女性同修の小麗さんがやむを得ず家を離れなければならなくなって、資料点に行きたいと言ったので、A同修は彼女を私達の資料点に連れてきました。5、6日経って、小麗さんは家の様子を見に帰りましたが、二度と戻ってきませんでした。小麗さんは資料点の生活が苦しすぎると言っている、と他の同修から聞きました。実は小麗さんが来た時、我々は特別に彼女を「優遇」したつもりです。彼女のために2元を費やして3キロぐらいのレタス(安全を図るため、これ以上言わない)も買って、みそをつけて食べました。私達にとって有難い珍味でした。

 それから小麗さんはお母さんにこのことを教えました。小麗さんの母はこれでA同修に不満を持つようになりました。以前、A同修がやむを得ず家を離れた時期に小麗さんの家に住んだことがあり、大いにお世話になったのです。おそらく小麗さんの母(修煉者ではない)は、今度A同修が小麗さんをこんなにひどく扱って情けないと思っています。小麗さんはその後多少A同修に対してわだかまりができました。A同修は、私達は自分のお金を持たず、衆生を救い済度するための資金を流用して同修によい物を食べさせるわけにはいかないと重い気持ちで言いました。

 これらの出来事の根本的な原因は、資料点の同修が他の同修の「援助」をうけて、衣食とも裕福な「ユートピア」のような生活を送っていると、たくさんの「在宅同修」は思い込んでいるからです。そのために、一部の同修はもともと資料点の一員になる同修はずっと資料点の衣食は「援助」で賄われていると思い、いったん資料点の生活に自ら入ったら、「気に入らない」、「悲しい」という気持ちになって帰ることもあります。

 ある資料点の同修が販売代理店の身分で、科学技術商品市場で中古のノートパソコンを大量に買い付けをした時、昼食時間に意外にもリュックサックからマントーを取り出しました。一緒に行った同修は驚いて、また面白いとも思いました。それで常人に「異常」と思わせないことについて私達と交流しました。

 私もよく科学技術商品市場へ行き、時には真夏に300キロ離れている市場に行きます。出発の前に資料点で水を入れたペットボトルを用意します。ある真夏の日、私は市場で一日歩きまわって、舌が動かないほど渇きました。バス停まで着いて、とても水を飲みたくて、露店に聞いたら、最も安いミネラル・ウォーターは2元です。自分の些細な喉の渇きを解決するために2元を費やすことを惜しんで、露店のお姉さんにバケツの水を飲ませてくれないかと頼みました。彼女はコップがない、と言い訳をしました。バケツの水はものを洗うための水ですが、彼女の商品を買わないと飲ませてくれません。私も若い男性で、修煉していなかったらこんなお願いはしません。それでバス停のトイレに行って、両手で水道水をすくっていっぱい飲みました。

 実は多くの資料点同修にとって、これはよくあることです。

 (続く)

 (資料点):中国共産党の法輪功への弾圧が激しくなる中で、各地の法輪功修煉者によって自発的に設立され、真相資料などを作製する拠点のこと。

 2008年5月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/4/24/177105.html