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7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(一の下)

 (明慧日本)

 衣服について

 ここ2年、家からの仕送りが多少多くなり、着る服も少しよくなりました。数年前、私達の資料点の同修は大半が在宅の同修から譲られた服を着ていました。それらの服は古いもの若しくは流行遅れのもので、同修たちは自分のサイズに合う服を選んで着ており、ほとんど1、2年、新しい服を買っていません。実は私達も若者で、時には少し良い服も着たいと思います。新しい服を買いたければ安売りの時に買います。

 資料点の同修は仕事もせず、家族の支援もあまり受けられず、お金はどこから来るのか、同修の援助を受けなければ成り立たないだろう? と疑問を持つ同修もいると思います。 

 吉林地区の同修が書いた「長年実修を重要視しない問題、及び長期にわたり同修の援助を願う問題—吉林市の現状についての交流(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2007/8/14/160724.html)」を読んだ時、私の心はとても苦しく、矛盾した気持ちも生じてきました。 

 やむを得ず家を出て異郷で暮らし始めた当初、私達は確かに同修の金銭や物資の援助を受けたことがあります。しかし、だんだんと援助を断わるようになりました。

 幾多の曲折

 多くの同修から我々は金銭や物資の援助を受けたと私達も認めますが、同時に多くの同修がそれを注意深く見守っているのも事実です。そのために私達の衣食は「監視」の中に置かれているような気がします。2人の資料点の同修がやむを得ず家を出て暮らしていた時、道端の露店で、在宅の同修が援助してくれたお金を1人10元ずつ使って、夏のズボンを買いました。数日経って、やむを得ず家を出て暮らす同修が、いかに金遣いが荒いかという「ニュース」が広がりました。また、ある同修は生活が比較的裕福な在宅の同修Aがくれた高級な、しかし流行遅れの上着を着て、在宅の同修Bの家に行った時、家庭の経済的条件の良い同修Bはとても物を見る目があり、一目で資料点の同修が着ている上着は高級品だと見抜きましたが、資料点の同修自身は本当に知りませんでした。そこで資料点の同修はいかに金遣いが荒く、私の家がこれだけ裕福でもこんなに高級な服を着たことがない、という噂が同修Bにより広がりました。

 そのため私達資料点の同修の間で交流を行い、今後在宅の同修がお金をくれても物をくれてもいっさい受けないことに決めました。同修が他の人にあげたいならあげてもいい、それは彼の自由です。しかし、資料点の同修をとてもよく理解してくれている在宅の同修もいて、彼らの厚意は辞退し難く、受け取ってもいいのですが、お金は使わずに資料製作用の資金に入れました。このようにするのは感情的になるのではなく、同修の間での法理と人情の関係がますます分かってきたからです。お互いに人心と利益の相互の妨害を減らし、全体がさらに清浄になるためです。

 このような事はどの資料点でも少なからず発生している

 私の生活費は数年来ずっと家から仕送りしてもらっていますが、足りない時もあり、同修が援助してくれたお金を使ったのは事実です。家からお金が送られてくると、毎回私達は単独で保管せず、資料製作用の資金と一緒に置いています。私達はこう思っています、「お金に余裕があれば思う存分に使っていいのですか? 思いのままに食べて、着ていいのですか? 自分のお金と同修のお金は法を実証する上で違いは何もありません」。しかし、これは私達の人心に口実を探しているのでは決してありません。そこで私達は実際にお金を使う時、自分に最低のラインを引き、1分(中国貨幣の最小単位)でも節約できれば節約しています。 

 本音を言うと、資料点を離れて何かの仕事をして、生活の面で少し余裕があればいいとよく思います。しかし、何度も試してはすべて失敗しました。いったん仕事をすると自分の時間がなくなり、学法と煉功も確保できなくなるからです。 

 資料点の同修は一部の同修が思うような、援助を受けながら暇に暮らしている怠惰な人ですか?

 二つ目の資料点に来た後、私達3人は3地区1600人ぐらいの同修に真相資料と師父の説法を提供していました。その時はまだ小型資料点の概念が出されていない時期で、私の主な仕事はコンピューターの操作で、毎日その前に8時間座り込んでいました。資料が多く必要とされる時、私達はほとんど学法の時間もなくなりました。2002年〜2005年の間、私達は1年に『転法輪』を数回しか読めず、師父の説法は年に1回も読んでいませんでした。最初は学法をしっかりしていなければ、心身ともに心地が悪くなる感じでしたが、学法をするとだんだんとかえって気分が悪くなり、その後、学法をしない状態に「慣れてしまいました」。その時、昼間資料を作り、夜3地区を回って資料を運んでいました。厳寒であろうと酷暑であろうと、夜オートバイに乗って100キロ近く往復して資料を送っていました。

 それはまだ何ともいえず順調なときです。当資料点と連絡している同修が警察に見つかった時、若しくは他の妨害で資料点を引っ越さざるを得ない時、本当に今思い出しても頭が痛いほどです。疲れるのは当然ですが、肝心なのは邪悪に注目される中、全力で一刻も早く引っ越して、資料点ができるだけ損害を蒙らないようにすることです。本当に邪悪と一生懸命戦って、まるで戦場のようです。資料点を引っ越す時、疲れて泣きたくなり、夜横たわると、全身が痛くて、起きようと思っても起きられず、何日か経つと体が一回り痩せます。心を煩わすのはもとより、本当に自分の全てを消耗してしまいます。邪悪を警戒しながら引っ越し作業をし、どのようにして新しい拠点を早く見つけ、早く安定させ、そして衆生を救うことに差し障りがないかを考えています。引っ越すと痩せて、引っ越さなければまた太ると、かつて食事の時ある資料点の同修が言っていました。このような苦しみは言葉で表現できません。引っ越しは本当に生死を分けるような邪悪との戦いで、たくさんの同修が資料点を引っ越す時に魔の手に陥ったのです。それは身を持って経験しなければ永遠に分からない体得です。

 2003年以降、邪悪の勢いがさらに激しくなるに伴い、邪悪を暴き出す文章もだんだん多くなり、必要とされる真相資料も多くなりました。江沢民が告訴された時、いくつかの地区から送られた原稿が資料点に溜まって、我々は1〜2カ月の間、ひたすら原稿を入力しました。当時人手が少ない時は資料点に2人しかおらず、昼間コンピューターを操作し、夜、引き続き入力作業をすると、どうしても心を静めて学法ができなくなります。私達は気持ちが焦って泣いたこともあります。学法ができなくなって泣く一方、これらの原稿も時間の制限があります。よくキーボードを打ちながら眠ったこともありました。また3地区から送られた、現地の邪悪を暴露する原稿を整理して、インターネットにアップしなければならないし、真相資料のレイアウトと隔週発行の小冊子(当時ネットに『明慧週刊』がまだない)のレイアウトもしなければならないし、本当に猫の手も借りたいほど忙しかったのです。  

 その時ある協調人は私達に会うと、会った途端にいきなり「資料はできましたか?」と聞きます。できていないと答えると、更に「あなた達は1日何をやっていたのですか!」、若しくは「あなた達は何のためにここにいるのですか!」と責めます。私達はどう答えてよいか分かりません。またこの協調人が現地の邪悪を暴露する原稿をすべて私達の資料点に持って来て、入力を求めました。時々入力する途中に疑問点を発見して、また顔を合わせた時に照らし合わせて確認しなければならず、とても時間がかかります。実はこの協調人の家にもその時コンピューターがあり、インターネットへのアクセスと原稿入力も可能なのですが、やはり私達にやらせ、私達の入力スピードが速いからと言っています。一方、私達もコンピューターに触れたばかりで、入力スピードもまだとても遅いのです。しかし、これも法輪大法の仕事ですので、私達は拒むわけにはいかず、やはり少し抵抗を覚えても、引き取って心を静めて黙々とやりました。

 時々、私達の状態が本当によくなくて、仕事を一段落させてしっかり学法をし、自分の状態を整えたいのですが、やはりできませんでした。自分が学法と煉功をしたくないのではなく、仕事が多すぎて前に進めなければなりません。数年来、多くの資料点の同修が捕えられましたが、実は手元の仕事を暫く休んで、少し自分の状態を整えれば多くの苦難は免れたはずです。例えば私と一緒に頑張った同修・大偉さんです。最初の資料点を離れてからも大偉さんはずっとやめていません。異郷で会った時でも、彼は私達がかつて使っていた印刷機を持っていきました。その時、彼は私を誘ってすぐ地元に帰りたがりました。もし彼が私のように暫く資料の仕事を止めて、学法して少し状態を整えれば、きっとその苦難を免れたに違いありません。大偉さんがなぜ急いで地元に帰りたがったのか、私は最も彼の心を知っています。大偉さんはすごい、としか言えません。大偉さんは正法時期の大法弟子の神聖な責任感を持っています。彼の行為がそれを実証しているのです。

 当時、私達は資料を完成するとまた同修の手に送り届けなければなりませんでした。資料を受け取りに来る同修が1人もいない時もありました。あれこれの理由があって、取りに来られる同修がたくさんいながら、絶対取りに来ず、届けなければ何もしなくなる同修もいます。資料点の仕事を助けてほしいと同修に頼みますが、即座に断わられます。まったく「資料点はあなた達特定の何人かの資料点で、私には無関係」のようです。当時、資料点の仕事は重くて、毎回用紙を買う時は車で運び、倉庫も借りています。毎回の引っ越しは本当に煩わしくて、食べられず眠られない状態です。資料点の引越しは工場の引っ越しと変わらないほど重い困難な任務です。引っ越しから新しい資料点の設立、正常化まで、資料点の同修は心血と汗をどれだけ注いだか、経験していない同修には体得できません。さらに師父の常に慈悲ある加護に感謝いたします。私自身はこの道を歩んできましたが、思い出す度に思わず涙が流れます。自分がこのようにできたことに感動して涙を流すのでなく、慈悲で偉大な師父がこの偉大な法をもって、幾千幾万のこのように素晴らしい大法弟子を育成されたことに感動すると共に、自分は塵のように小さくて卑しいと感じるからです。

 (続く) 

 2008年5月7日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/4/24/177105.html