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7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(二の上)

(明慧日本)

 私たちはいったい何のためにあるのか

  ここまで書けば、資料点の同修についてある程度理解できたと思います。数年間、同修たちはいたる所で「資料点」の文字を見ますが、資料点の詳細について交流することはほとんどありませんでした。その理由は以下の通りです。(一)、本当に資料点での生活を体験した同修は多くいません。(二)、資料点の同修が自分自身のことを交流することはあまりありません。なぜなら、これらの同修はあまりにも忙しくて、文章にする時間すらありません。さらに多くの資料点で生活したことのある修煉者は逮捕されたり、間違いを犯して、過去の記憶を思い出したくなかったり、ひいては尊い命を失ったり、もしくは本人が交流できる安全な状況にいないからです。

  その後、私は多くの交流文章の中で、資料点または資料点の同修の問題について触れているのを見ましたが、大多数は資料点の同修によるものではありません。確かに言及された問題は存在します。しかし問題に対する視点は非常に偏っています。ひいては一部の同修の中で隔たりが生じ、互いに抵触する要素が生じたことにより、直接的に法を実証することに多くの妨害をもたらしました。私はいま同修の皆さんと交流し、共に向上したいと考えています。

  私がこれから書き出すのは資料点のよい面の一部です。もちろんよくない部分もあります。他の同修の文章でも指摘したように、「扶養してもらっている」現象は確かに存在します。しかし同修の指摘したようなものとは、いささか違うのではないかと思います。私自身のことをいうと、完全に自分の生活の生計を立てるための仕事を見つけることはできます。しかも多くの資料点の同修もかつては多く収入がありました。中には迫害のため仕方なく資料点に来たのではなく、それらの同修は自ら積極的にこの重荷を背負ったのです。私が担当した最初の資料点では、一部の同修は地元の金持ちや、社長だったのです。彼らは自分の全財産を大法に捧げました。その後、彼らは迫害の中で間違った方向に進んだのですが、彼らは確かにその時期に法を実証する中で大きな作用をもたらし、邪悪を震撼させました。今でも、多くの同修はその当時の彼らと比べることはできません。彼らは自分の快適な生活を捨てて、自ら積極的にこの衆生を救い済度する重荷を背負うことに、未だに安全と利益のため資料点を作ろうとしない同修よりはるかに素晴らしいのです。私の話は率直過ぎるかもしれませんが、事実です。私は同修が家庭式資料点を発足させるのを手伝う過程の中で、同修といかに家庭式資料点を作るかについて言及すると、「小型資料点」という言葉を口にするだけで、相手は直ちに首をかしげ、できるだけこの話題を避けようとするのです。資料点の発足について考えてほしいというと、直ちに非協力的になる人がいます。

  最初は本当に、家庭式資料点を作る同修を探すのは大変でした。私がその人に資料点を作るのを助けるために、何かを教えるにしても、私が積極的にならなければならず、さらにその人の家事もしくは自分自身の問題を先に解決するのを手伝わなければ、こちらの話を聞いてくれません。厳しく要求すると相手は学ばなくなりますから、どうしようもありません。

  吉林省の同修の文章によると、協調人が仕事をさせないと言いますが、そうとは限りません。問題は、その協調人のみならず、一つの地区が法を正す道を、協調人によって阻まれるようでは、この地区の同修は本当に問題があります。このこと自体が問題なのです。一人の正念の強い大法弟子が法を実証する道を、誰も阻むことはできません。邪悪もそれはできません。まさに一部の同修が自分のいろんな条件が未熟なため、家庭式資料点を発足できないというのと同じように、みな口実なのです。あなたが本当にやろうと思うならば、邪悪もあなたを妨害できません。これらの表面的な人間の要素はなおさらできません。ならば自分自身に対して、大法弟子としての条件を備えているかどうか自問してください。自分が大法弟子になるのに条件を求めているのではありませんか? 自分が自分の修煉の道を選択していることになります。それは師父の要求に従って修煉の道を歩むことではありません。たとえば、師父は私だけを済度するとして、必ず家庭式資料点を作って初めて円満成就できると私にはっきりとおっしゃったならば、私はきっと作るでしょう。しかしそれは修煉ではありません。それはある種の利益のために動くことだからです。

  パソコンやそれに関する技術が分からないという同修もいます。その人は資料点を発足させるというと、直ちにパソコンが分からないというのですが、自分の仕事や生計のためには積極的にパソコンを買っていました。また、一部の同修は技術について分からないし、その能力がないと言いますが、日常生活の中で、自分の仕事のためならば、誰よりも積極的でよくできるのですが、資料点のためとなると誰よりも消極的になるのです。大多数の同修は技術がないと言っています。しかし私たちは常人社会の生活で必要なとき、利益があるとき、どんなに難しい技術でも学ぼうとするのです。私たちは常人の学位のためには一生懸命奮闘し、視力を悪化させても決して屈しないのに、資料点を作るというと、直ちにやらない方を選択し、他の同修がどれほど大変なのかを気にかけません。私たちの心の中に一つの天秤があります。片方は個人の利益、片方は家庭式資料点とすれば、どちら側に傾くのか、自分自身に問いかけてみてください。多くの同修は資料を受け取っても時間がないと言いますが、自分の仕事についてはいつどんなときでも時間があるのです。その人に資料点を発足させるという話になるとまだ経済的な条件を満たしていないといいますが、自分の住宅の内装のためには数万元をかけても惜しみません。

  法を正す過程はすでに終わりの段階に入っています。私たちは自分自身に対して、衆生を救い済度することについて、本当に真心を尽くしたかどうか問いかけるべきです。本当に師父が私たちを済度されるときのように、自分のすべてを尽くしたのでしょうか?

 (続く)

  (資料点):中国共産党の法輪功への弾圧が激しくなる中で、各地の法輪功修煉者によって自発的に設立され、真相資料などを作製する拠点のこと。 

  2008年5月8日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/25/177106.html