日本明慧
■印刷版   

自分を常に大法に溶け込ませるように


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)私はある大都会の個人経営の会社に勤めています。市内は家賃が高いので、郊外の安い部屋を借りるしかありません。毎日バスで通勤し、片道1時間—2時間くらいかかります。昼休みは1時間くらいしかありません。毎日せかせかしていて、とても疲れを感じています。こんな生活がずっと続くと、自分は俗世間に落ち込んでしまい、とても精進できなくなるように感じていました。

 故郷の同修もだれそれの同修がその都市に来ると、精進できなくなると言っていますが、なぜここに来ると精進できなくなるのでしょうか。客観的な原因を言えば、それはこの都市は広くて人口も多く、すべての人はみな名誉や利益を求めるためにあくせくしており、こんな環境に長く浸ると汚染されやすいからだと思いますが、本当の原因は旧勢力の残った邪悪な要素はよその空間で大法弟子の一人一人をじっと見つめていて、八方手を尽くして大法弟子をだめにしようとするからだと思います。ことあるたびに内に向けて探すようにと師父は教えてくださいましたが、妨害されたからには客観的な原因を探してはならず、無条件に内に向けて探し、自分を厳しく律すべきであり、自分が本当によく行うようにすれば、回りの環境も必ず変わると私は思います。

 昔、私の状態はよかったり悪かったりでしたが、毎日退勤してから、法を多く学べず、煉功も疎かにしていました。自分も焦っていましたが、何かに押し付けられたようで、成す術が無いように感じていました。今振り返ってみると、主な原因はやはり法の学習が少ないことと心を静めて法の学習をしていなかったところにあると思います。法をよく学び、正念をよく発し、真相をよく伝えるようにと師父は要求されましたが、法をよく学ぶことはほかの二つのことをよく行う前提と基礎だと思います。師父は毎回説法される時、法を学ぶことの肝心さを教えておられますが、法をよく学ぶことは二つの方面:法をよく読むことと煉功することにあると私は理解しています。こんなことをはっきりと認識して今年の二月ごろから私は自分の悟った方法で実践し、いい効果を収めました。次は具体的に説明させていただきます。

 朝の目覚まし時計を三時半に合わせ、三時五十分に定刻どおりに集団の煉功に参加します。そして、六時十五分に正念を発し終わってから、出かける支度をして、六時五十五分までに家を出て、歩きながら七時の正念を発します。七時十分ごろにバスに乗り、携帯電話で法を学びます。(私の携帯電話には読書の機能が付いているが、読書が不便だと思う同修はmp3で説法を聞いてもいいと思う)途中一時間くらいかかりますが、このように時間を生かせると思います。それから定刻になると、正念を発します。八時半に仕事が始まり、昼休みは、ご飯を食べながら、正念を発します。食事の後、《明慧週刊》を読んだり法の学習をしたりします。

 それから、仕事中でも、もし事務室に私しかいない場合には、手元の仕事が終わったら、携帯でちょっと法を学ぶようにします。外回りの時も時間があれば、それを利用して法の学習をします。午後五時半に会社を出ますが、このときいつもバスが込んでいて、座席が無いので、法の学習は不便なため、その代わりに正念を発するようにします。七時前に家に着く場合には、七時に正念を発して、それから晩御飯を食べます。(母が作ってくれている、彼女も同修である)、そのあと、用事が無ければ、普通は八時から十二時にかけては定刻の正念を発します。八時か九時に正念を発してから、母と集団で法の学習をします。(周りにほかの同修がいないため、今のところ学習グループは私と母親しかいない)。十二時に正念を発してから、寝ます。月曜から金曜まではこのように手配しています。土曜と日曜の場合は朝晩の修練は変わりませんが、昼間の間は真相を伝えるようにします。

 このようにすると、常に自分のことを大法弟子と意識し、仕事中にトラブルがあった場合に正念で対処することができるようになります。自分が常に大法に溶け込んでおり、昔のような大法をかけ離れるような感じが無くなり、和やかな心理状態を保っているため、昔の様な疲れは感じなくなりました。

 中にはよく行なえていないところもあります。例えば、朝寝すごしてしまい、目覚しが鳴っても、母が起こしても起きないとか、朝六時の正念を発してからちょっと居眠りしようと思って、十分に正念を発しないとか、歩きながら正念を発するとき気が散ってしまうとか、夜に法を学ぶ時眠くてたまらなく、我慢せずに寝てしまうとかいうようなことがあります。今日ここでこれらの不足点も暴き出し、今後自分を厳しく律し、出来るだけ早くよく行えるように頑張りたいと思います。

 私はまだ独身で、家事も母がやってくれているのですから、時間に割りとゆとりがあると思います。この会得は私と同じような環境にいる同修に少しでも参考になれば有難いと思っております。勿論、このような体験を悟れるのは師父の慈悲なるお守りが無ければ出来ないものであり、師父に如何に感謝すればよいか分からず、精進に精進を重ね師恩に報いるほかないと思います。

 以上は今の段階での個人の認識ですが、正しくないところがありましたら、同修の皆さんに慈悲なるご叱正を賜るようお願いします。合掌。

 2008年5月12日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/3/177731.html