日本明慧
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法を得るのが遅いため、もっと精進すべきである


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本) 私は2002年に幸運にも法を得た大法弟子です。修煉してから『転法輪』を読み、ハッと目が覚め、万物を量る基準が「真・善・忍」であることを知り、初めて法輪大法の神聖さと厳粛さ、奥深さが分かるようになりました。自分がとてもちっぽけで無知な存在に思えました。常人の中で身に染まった悪習は骨の髄まで染み込んでおり、他所の空間で見ると花崗岩のようなもので、それはとてもそう簡単に全部取り除かれるというわけではないのです。いつも一つの執着がまだきれいに取り除かれていないうちに、もうほかの執着が現れてきているのです。しかし、毎日法を学ぶことを通して、最近自分の根本的な執着に対して、比較的はっきりと認識するようになりました。

 法を得る前に、私は常人社会でずいぶんたくさん辛い目に遭わされました。こんな人生経験を積み重ねていく中で、私は自己保身の「技」を身に付け、「歯には歯を、目には目を」を人生哲理だと思い込み、また墜落した基準で自分を判断し、自分がまだほかの人よりずっとましであるかのように思っていました。幼いころから、私は頭がよく、成績がよかったので、成績の悪い人をいつも見下げていました。また、自分は責任感が強いので、利己心の強いクラスメートにいつも不満を持ち、いつも情け容赦もなく責めて、相手の面子を丸潰れにしていました。実はこのような行為は「真」にも「善」にも符合しておらず、すべて名誉や利益への執着なのです。大学を卒業してから、いい加減に仕事をしたりぐずぐずしたりする同僚や、また、全然向上心がなく勤務時間にトランプをして遊ぶ上司を目にすると、いつも我慢ができなくなり、不満な気持ちが言葉や表情を通して表れていたのです。これらは常人社会ではいいように見えますが、修煉者に対しての要求はさらに高いため、人の情に心を動かされてはいけないと思います。修煉者としては、善悪を識別しなければならないとはいえ、自分が怒ってはならず、また相手のことを考えながら、真心を込めて相手を手伝うようにしなければなりません。これこそ修煉者の現れるべき風貌であり、修煉者の大善と大忍の表現であると思います。大法を自分に照らしてみて、自分の不足が分かるようになりました。そこで、最近、私は自分の気持ちを抑え、相手に対して寛容で、根気よく相手を手伝うようにしています。すると、同僚も喜ぶようになり、上司も相手のことを良く考えながらしっかりやっていると褒めてくれます。

 私の家族は私より8年も早く法を得たのですが、三つのことをよく行っていないと思います。例えば、真相を伝える手紙を他の同修に頼まれ、家族はそれを持ち帰ると、棚に上げたまま何カ月経っても出していません。それを知らない同修は、またどんどんと次の手紙を渡していましたが、いずれも放って置いたままで、出していないのです。それを見た私は、いつも家族に怒ってしまうのです。家族のやり方は正しくないとはいえ、相手に向かって怒った私も「忍」をよく行えませんでした。常人に真相を伝えるにしろ、同修に精進するように助言するにしろ、善を勧める立場に立ってやるにしても、どんな時でもどんなトラブルに遭っても、「真・善・忍」で自分を律するようにしなければなりません。思いがけないトラブルが急に現れた時こそ、修煉者の「忍」に対する実証を試煉する一番いいチャンスなのです。内に向けて探して見てから分かったのですが、それらの怒りや恨みはみな魔性であり、神の状態ではありません。師父は『転法輪』の中で教えてくださいましたが、「怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです。しかし、煉功者として、超常的な人間としては、その理で量るわけにはいかず、そこから抜け出さなければなりません」と、怒ったときは少なくとも「忍」において自分はまだ常人の状態なのです。法を学ぶことを通して、私は自分の問題点が分かるようになり、最近はもう家族と口論しなくなり、自分で黙々と三つのことを行い、衆生を救い済度することを行うようになりました。

 真相を伝える方面において、ある日、100人あまりを前にして、私は堂々と法輪大法の素晴らしさを伝え、虚言を信じないようにと言いました。みんなは得心の微笑を示してくれました。法を正す時期に法を得た大法弟子なら、法を実証することにおいても、個人修煉においてもみなよく行わなければならないと師父は教えてくださいました。私はいつでもどこでも法を師にし、修煉する意志を緩めないようにすると同時に、体裁のいい口実で自分の執着を隠し、いつも相手の不足を見つけることのないように、法をよく学び、内に向けて探し、そして、衆生をよく救い済度するように行っていきたいと思っています。毎日よく法を学ぶようにすれば、衆生を救い済度することにおいて、いい効果を収められるのです。

 師父の説法で「法は一切の執着を打破することができて、法は一切の邪悪を打破することができますし、法は一切の虚言を打破することができて、法は正念を固めることができるのです」(『精進要旨 二』「妨害を排除せよ」)を堅く信じています。私には執着心がまだ多く、よく行っていないところもまだたくさんありますが、同修の皆さんに慈悲なるご指摘をいただきたいと思います!

 偉大なる師父にご挨拶申し上げます。慈悲深い師父に感謝いたします。合掌!

 2008年5月13日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/3/177717.html