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人を救うこそ最大の道理


 文/大陸・大法弟子

(明慧日本)四川大地震が発生しました。インターネット上で毎日増える死亡者数や日に日にせっぱ詰まっている救援の呼びかけを聞いて、私の涙は抑え切れず、ぼろぼろ流れました。修煉してから、どれだけの苦しみを嘗め、どれだけの難関に遭っても、私はすべて自分の修煉がまだまだ足りないと思い、師父がおられ、法があり、私は苦にならず、難を思わず、泣くこともめったにありませんでした。しかし今日、四川大震災後の悲惨な様子を見て、私は思わず涙がこぼれました。

 人を救い、多くの人を救おう! 私は心から呼びかけます。本当の劫難が来る前に、1人でも多く救えば、劫難の後に流す涙はその分少ないのです。私達大法弟子にとって、すべてをうち込んで人を救うことを邪魔するのは、自我に執着することでしかありません。

 2、3日前、私達の学法グループの中にまだいくつかの修煉問題について口論がありました。こちらは正しいと言い、あちらは自分が正しいと言い、甚だしきに至ってはある同修はとても執着していました。このような論争について、師父は『転法輪』の中にすでに説いておられます。「わたしに言わせれば、意義がありません。なぜかといいますと、彼らが、修煉過程における一つの理に対する認識のことを言っているに過ぎないからです。この理は、たちどころに認識する人もいれば、徐々に悟り、認識する人もいます。どう悟ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに認識できれば、それに越したことはありませんが、徐々に悟ってもかまいません。どちらも悟ったことになるのではないでしょうか? どちらも悟りですから、どちらも悪くありません」。私達の修煉はまさに一歩一歩向上するのであって、法理を認識するのも次元が異なるのも普通で、法の中にいれば間違いないのです。私達がこのことについて論争する間にも、多くの時間がするすると過ぎ去るのです。今、人を救うことが本当に急務であり、どれだけの時間の余裕があり、どれだけの人を救えるのでしょうか?

 最近、「資料点での生活における修煉の歩み」という文章がたくさんの同修の思考を引き起こし、多くの同修が自分の不足を知り、自我を放下して同修を理解することが全体の成り立ちにとても大事だと認識しました。しかし、逆に考えて、同修たちの私達に対する理解は本当にそんなに重要ですか? 誰でも修煉中の不足があり、誰でも一つの問題に対してすべての角度から見ることはあり得ません。まして旧勢力があらゆる隙を狙って仲間を壊しているのです。もしかして、私達が同修の理解を求め、根気よく解釈し、如何に相互に理解するかを討論する時に、旧勢力が私達の傍で笑っているかもしれません?! 大雪災害、手足口病、四川大地震、まだまだたくさんの随時発生する災難の中で、どのくらいの生命がもともと救えるのに、私達のだらだらした所為で永遠に命を失っているのでしょうか?!

 私の祖母は生前に、長い間ずっと最も原始的な方法で手織機を使って布を織っていました。祖母の娘や嫁達は見舞いに行くたびに、祖母に各種の原料を渡していました。私は「お婆さんは知っていますか? 今の紡織工場の織機は1時間で、お婆さんが一生の間に織り上げた量を織ってしまいますよ。手織機はあまりにも遅い」と言った。当時、字が読めない祖母は最も哲理に富んだ話をした、「あれは人の紡織工場の事だ。私にはこの織機だけがあり、私はこれを使って布を織る」。この話を、私は今やっと本当に理解しました。

 そうですね、同修はすべてそれぞれに違っています。他の同修とこの同修を比較することができるのですか? 同修が人を救う事をしているならば、私達は無私に協力、支持するべきで、これこそ師父が言われた『黙々として円容する』です! しかし、よくあるのは人を評しながら、同修の不足を迫害された原因と決め付け、実は、そこに私達が円容するべき責任があります! 一方、私達のやりかたが同修の賛成を得ていない時に、気にはしても、実はその必要はありません。私達は自分の条件を尽くして人を救う事をしていれば、自分なりの衆生を済度する道を歩んでおり、師父が認められたら、私達はさらに誰の認可を求めるのでしょうか?

 正法は最後の最後になり、今では、人を救うことこそ最大の理です。徹底的に自我を放下し、自分のすべての観念を放下して、すべての執着をなくして、人を済度しましょう、救える人を救いましょう。

  2008年5月30日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/5/19/178778.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/5/24/97606.html