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着実に修練し続けられるかどうかは修煉者への試練である

(明慧日本)最近何名かの、迫害前から修煉している古い同修の状態が良くないことを知りました。彼らは病気による業の表れが非常に強く、何度も入院して治療を受けました。なかには『明慧週刊』を読もうともせず、半年以上真相を伝えようとしない人もいました。これらの同修は迫害が始まった当初は、内心の自我を放下し、生死を放下して真相を伝えることができました。また北京で大法を実証して安全に戻ってきた同修もいました。なぜ今日になってこのような良くない状況になったのでしょうか?

 まず私たちは寛容でなくてはなりません。修煉者であっても間違いは付き物です。どんな人でも良くない状態になればそれも正常であると言えます。周りの同修として十分に理解するべきです。古い同修だから精進していなければならない、良くできていなければならない、と思うべきではありません。修煉には先も後もありません。修煉が良くできているかどうかも古さによって決めるべきではありません。同修に問題があると気づいたとき、まず自分にも同じような問題があると考えてから、彼らをどうやって助けられるかを考えるべきです。

 また、これら同修の状態が良くない根本的な原因は、修煉の機縁を大切にせず、精進の意思を緩めたからです。安逸の心を野放しにし、自分に対して厳しく収めず、修煉において向上しようとする意識が少なかったからです。

 ある同修は修煉して10年経ちますが、退職して家で日々を過ごしており、時間は十分にあります。しかしいつも多くて1講しか読めません。それ以上読むと目が痛い、といいます。70近くの年配者にとって目の痛みは大変辛いでしょう。しかし、修煉者にとってこれは直面すべき試練であり、放下すべき執着です。痛みを恐れる人心を放下し、読み続ければこの状態を突破できます。それ以来どんなに長い時間読んでも痛くなりません。私はこのような体験をしました。本を読む時間が少しでも長くなると、目が痛くなるばかりではなく、頭痛や吐き気も伴ってきます。しかし自分を修煉者としてみなし、読み続けると、痛くなくなる日がやってきます。修煉者は年をとっても、体は衰弱しません。法を学ぶことに力を注ぐべきであり、大変さを恐れてはなりません。

 ある同修は病気による業力を滅するなかで、何度も繰り返し病気の表れが出てきました。その人は、これは十数年前の古い病気だ。また他の病気は考えなくて良いのですが、この病気は大変痛いです、といいました。実はこのような話を口に出すとき、すでにこの病気の重さを認めたことになります。つまりそれを認めてしまえば効果が良くなるのでしょうか?修煉者はエネルギーがあるからです。もしかするとある程度の次元の中で、一念ですべてを決めることができるかもしれません。病気は私たちによって強められたものであれば、それを否定しない限りそれが滅することはありません。観念を変えて人心の執着を放下し、このような考えが出てきたら、まずこれは修煉による正念ではなく、思想業力によるものだと認識し、心の中からこの病気は認めません、いかなる迫害も認めないので早く私から離れてください、という正念を発して初めて私から離れることができます。

 ある同修は生まれながらにして肝が小さく、自宅の電話が盗聴されていると思い込んでから、『明慧週刊』を読まなくなり真相も伝えなくなりました。実は真に修める同修はみなあなたを理解しています。なぜなら私たちもこのような苦しさ、圧力の中から歩み出てきたのです。しかし、自分の安全を確保する前提状況のもとで、『明慧週刊』を読み、真相を伝えてください。なぜなら修煉しても向上できますが、集団の環境から離れたら向上は非常に遅くなり、比べる環境がなければ修煉者は自分の不足に気づかないものです。しかし、真相を伝えることは無理してやることではなく、かといっても全くしないわけにはいきません。どんなに辛くても克服しなければなりません。状態が良くないときは、住所を集めたりするなどの目立たない仕事をすることができます。もちろん衆生を救うという慈悲の心が必要であり、そうなれば真相を伝えるときも益々良くできるようになります。

 古人は「時は金なり」と言いました。私たちが最も大切にすべきものは時間です。もしある修煉者が10年毎日1講法を学び、真相資料を一部つくり、1年間すべての執着を放下するとして、もう一人の修煉者は5年間修煉して、毎日3講読み、10部の真相資料を作り、1ヶ月にひとつの執着を放下できたとしたら、彼らの修煉が同時に終わったとき、誰の収穫が最も多いのでしょうか?修煉はがんばった分実ります。修煉の先と後、年齢の問題ではありません。修煉は修めたぶんだけ得られます。ですから年配の同修はこの機縁を大切にして精進しましょう。

 みなさんもこのように感じているかもしれません。周りの一部の同修は、賢くもなく勇気があるわけでもないが、しかし彼らの修煉状態は非常に良く保たれています。原因はどこにあるかと言えば、彼らは継続して法を学び、内に向けて探し、しっかりと執着を取り除き、精進しているからです。ですから修煉において、根気の良し悪し、また悟性の高低があるにしても、重要なのは修煉において精進し続けることです。たくさんの同修は時間を大切にして法を学び内に向けて探しています。だからこそ彼らの向上も早いのです。

 世間の迷いの中で修練する人は、惰性、安逸を求める心、これらはいずれも人の意志を弱めています。もし私たちが正念を持って、自分を厳しく律し、厳しく修めなければ、常人に戻り、出られなくなってしまいます。そのためたくさんの同修は自分に目標を作っています。例えば毎日2時間以上法を学ぶとか、1週間どれほどの真相資料を作るとか、これらのことを長期的に、着実に行っていくのです。これらの目標が毎日実現することは、すなわち自分の修煉に対する自信を強めることにも繋がります。自分の内に向けて探し、自分の内面からの約束によってのみ人は向上できます。だから着実に修めること自体が試練なのです。

 最後に一緒に師父の法を学びましょう。「伝統を保って、修煉の原則を維持して護り、着実に修め続けることは、一人一人の弟子に対する長期に渡る試練なのです」。心を静めて『最後になればなるほど精進すべき』を学びましょう。

 2008年6月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/6/8/179830.html