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自分を実証することは私(し)の現れ


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)私たちはどんなことに遭っても、内に向かって探すべきだと知っています。しかし多くの場合、同修らがうちに向かって探すことは間違った方向に変わります。私たちも内に向かって探す時がありますが、自分が向上できず、自分でも見つけ出した問題は似て非であるような感じがするのです。他人に「内に向かって探しなさい」という場合がありますが、その舞台裏でのせりふは「あなたは自分の間違ったところを探しなさい」なのです。法理をもって他人に「無私無我」、「他人のため」を要求するとき、2人のなかで、話す人は逆に「有私有我」を言っているのです。なぜなら、あなたは「あなたはどうして無私無我な態度で私のことを扱ってくれないのですか? あなたはこのように私のことを扱うべきです」と言っているからです。

 自分を実証することは私(し)の現れ

 私たちはかつてこのような体験をしたことがあります。争いに直面して、求めることを抱えて学法する時、多くの場合、この一段落の法はちょうど相手のことを言っており、この一段落の法はこのことを指している、彼はどうして悟らないのか、と気づくことがあります。ひいては論争中の2人は各自経文を持って、同時に相手を探し、それぞれ相手のために見つけだした「内に向かって探す」という段落を互いに相手に見せるのです。

 これは全体的な協調の中で特に突出しています。なぜなら、みな自分は大法のために責任を負っていると思い、みな慌てて問題を解決しようとし、しかも往々にしてなにか損をして、何か問題が起きたら、すぐ損を起こし、問題をきたした責任者を探し、あなたが正しいか、それとも私が正しいか結論を出そうとするのです。自分が間違っていても、どうして第一の反応は他人の間違いを探さないといけないのでしょうか? やはり自分を放下して、内に向かって探そうとせず、先に法に照らして自分を変えるように要求しないからです。

 同修らが集団で法を実証する仕事をする時、常に心性を向上させるためのトラブルが現れ、また一部の同修は自分自身を強調しすぎるために、自分を実証してしまい、現地に損失と妨害をもたらします。これらはみな根元を掘ると旧宇宙生命の私(し)から生じたもので、三つのことをしながら、自分を実証し、却って大法を第一位にしていないのです。

 自我に執着し、いつも「私は何をしている」、「私は何をしたい」、「私は何を得たいと思っている」、「私は佛に成就したい」、「私は何を成し遂げたいと思っている」などばかりで、終始その私(し)を離れておらず、内に向かって探すのも私(し)のためであり、ひいては上で述べたトラブルを解決するために、他人の執着を目にしても無私の心で慈悲をもって指摘することができないのです。他の同修が自分の不足点を指摘すると、その同修が内に向かって探していないと注意を与えるのです。

 師父はすでにはっきりと、どんなことをするにしても、私たちは他人のことを先に考え、他人に意見を述べてもらうべきであるという内容の説法をされたことがあります。どうしてまだ他人のことを指摘しないことこそ、「内に向かって探す」ことだと思うのでしょうか? 真相を伝えることに影響を与え、みなが協力して行うことに影響がもたらされたとき、指摘しなくてよいのでしょうか? そうであればいかに協調するのでしょうか? 実際、これらはみな他人の心に触れることを恐れ、他人が自分に刺激を与え、自分を保護するという心があるからこそ、このように邪な悟をしたのです。この最も基本的な修煉問題を解決せず、私(し)に対する執着が取り除かれなければ、大法弟子になれないのです。

 協調することで心が傷ついてしまったという協調人がいます。自分自身を強調して、個人の要素をなかに入れれば入れるほど、威徳がなくなり、やる仕事もうまくいかないはずです。自分を放下し、自分の観念、自分の要素を持たなければ持たないほど、仕事はやりやすくなり、成功しやすくなるのです。

 私たちは真相をはっきり伝える中で、私(し)を修め、同修の間で協調するとき、私(し)を修めます。今回の迫害の中で、大法弟子はみな冷静になり、理知的になり、自分の考えを持つようになり、しかもますます自分が何をしているのか分かるようになり、自分の正念を持つようになり、かつ正念はますます強くなり、これは返本帰真の現れです。

 法を第一位にすることこそ、真の無私

 法が第一位なのか、それとも自分が第一位なのか? 法が基準であるか、それとも自分が基準であるか? 無条件で法に則って、行うのか、それとも法を自分のために利用するのか? 旧宇宙のすべての行いは、みなこの基本的なところで間違っています。旧勢力は更にそうです。法を正す対象であるそれらは、却って勘違いして法を正すものの位置に自分をおき、衆生に巨大な災いをもたらし、自分をも台無しにしてしまいました。

 ここで述べたいのは、大法弟子の修煉の中には自分を正しい位置におくという問題があります。大法弟子にとって、師父は私たちに新しい宇宙を作ってくださっただけでなく、また私たちに神の位と神の栄耀、神の福分を与えてくださいました。すべてのすべてはみな師父が与えてくださったのです。宇宙大法の威厳と慈悲を前にして、師父の無上の威徳と広々とした佛恩を前にして、まだ自分が偉いと思う人がいるなら、その人はまさに大問題ではありませんか?

 真に内に向かって探し、心理状態が純粋であれば、学法する際に法理は目の前に現れるはずです。交流の中では、悟ったことをへりくだって慎重に語るべきであり、注意しないと執着に影響され、言い出すのは法に基づいていない個人のものになります。

 以上、もし不正で、不純なところがありましたら、同修の慈悲なる叱正を願います。

 2008年6月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/30/179235.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/6/4/97878.html