日本明慧
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怨恨の心について


 文/トロント大法弟子

(日本明慧)個人の修煉において、ある根本的な問題を発見しました。その状態は良くなったり、悪くなったりするのですが、完全に改まっていません。その問題は大法に抵触し、大法を敵視する華人に対して、心の底から彼らを拒んで、受け入れようとしないことです。たとえ法理から彼らに善の心で接するだけでなく、物言いや振る舞いの中にも出来る限り善意を持って実行しなければと認識できていても、決して、内心から慈悲なる気持ちで彼らを扱っていません。例えば、親戚の1人が「三退」に対して強い反感を持ち、私の送った『九評』まで破ったので、彼女のことを心の底から許せず、彼女に対し、排斥する気持ちと思いが一杯でした。

 最近、ネット上の同修の交流の中で言及した師父の経文に「実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません」と書かれていました、(『2002年米国フィラデルフィア法会での説法』)故に、私たちの恐怖心が迫害という残虐な事実を招くのです。ならば、怨恨の心も常人に大法を敵視する心を抱かせてしまうのでしょうか? 自分自身を見ても、修煉する前の自分は執念深く、他人の言ったことや行動をよく気にしていました。気が小さいため、いざ他人に気に障るようなことをされると、苦痛のあまりずっと念を持ち続け、許すことができませんでした。また、嫉妬する、恨む気持ちをずっと抱えていても、違和感がありませんでした、党文化で使われる言葉「愛憎分明」という基準に合っている自分は正義感の強い人間だと勘違いしていました。修煉し始めて、大法が迫害を受け、以来、私は大法に反対する常人に対して、表には出していなかっただけで、ずっと不満の気持ちを抱いてきました。

 ネット上である同修の体得を読みました。彼女の勤務先の知り合いは大法を批判する言葉を常に口にしていました。張り切ってしゃべる声は聞き苦しかったのです。しかし、彼女はその知り合いに真相を伝える勇気がありませんでした。ある日、その知り合いが邪党に欺かれて、とても気の毒に思えたので、その知り合いに必ず真相を伝える勇気を持つ大法弟子に会い、救われ、美しい未来を持てるようにと念じました。すると、その後、再びその知り合いにあった時に、その人は意外にも大法を中傷することを言わなくなり、態度も180度変わって、あの同修を尊敬し、自ら同修と交流するようになりました。この文章を読んで、善し悪しは一念によるものだということを思い出しました。修煉者にとって善を修めることは大事なことです。善になれることは一つの境界であり、事に当たる数で評価できるものではないと思います。自分は前から、あれこれ言ってきましたが、善を修めることを重視しませんでした。大法に反発する人に真相を伝える時は動機が不純で、むしろ互いに論争しているように見えました。時々闘争心、不平不満を思う心などの執着心が出てしまって、一心に彼らのためを思っていませんでした。

 ネット上の中国国内の同修たちの体得で、このようなことが書いてありました。過去ある確固不動な古い同修が、何故か転向させられた後にユダになったのです。それらの同修は怨恨の心情と事をする心を抱きながら、迫害を阻止していたからです。妥協のない確固たる意志を持っているように見えますが、動機は間違っていました。修煉者が持つべきでない状態でした。 

 昨日、子供を連れて病院へ行った時のことです。ひとりの2歳の男の子が自分より少し年長の子供たちと遊ぼうとしましたが、大きい子達の目つきと言葉使いはあまり友好的ではありませんでした。男の子の母親は自分の子を心配して、たびたび男の子を呼び戻して、その大きい子達は悪い子だ、一緒に遊ばないようにと教えました。しかし男の子は全然気にせずに、頑張って大きい子達と遊んでいました。しかもとても仲良く楽しそうでした。すぐ、大きい子たちも仲良くなり、昔からの友達のように遊びました。このことから、もしも相手に、敵意、観念などを持たなければ、善意で人を変えることは容易だということが分かりました。常人の理も同じだと思います。

 『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』の中で師父は「わずか一部の学習者が本当に不治の病にかかりましたが、皆さん考えてみてください。法を学ぶ前、重病にかかっていた人や不治の病にかかっていた多くの人は 大法を学んでから良くなったのですが、どうしてかえって死にそうになっている学習者がいるのでしょうか? 大法は衆生に対しての待遇に違いがあるのでしょうか? 師父である私は学習者に対して異なっているのでしょうか? 私は本当に皆さんに聞いて見たいと思いますが、あなたは真に修煉しているのでしょうか? あなたは本当に大法の要求にしたがって行なっているのでしょうか?! 真相を伝える中で法輪功を迫害する人に対して不満があるという常人の心から行なっているのでしょうか、それとも本当に大法弟子の角度から法を実証し、衆生を救い済度しているのでしょうか?」とおっしゃいました。

 近頃、この数年の自分の意識が未だに完全に改まっていないことを感じ始めました。ある時は、華人が西洋人の多く勤める会社で毒をばら撒くように、中国共産政府のデマを飛ばして、一部の西洋人に大法に対する偏見を齎したのを見て、これらの華人のことを心から憎み、西洋社会の悪性腫瘍のような存在に感じました。このような言い方は過言ではないことは知っていますが、このような心理状態は間違っていました。

 前から自分の問題に気付いていましたが、最近になってやっとこの問題の深刻さが分かりました。この心を排除しようと今まで力を入れなかったため、健在していたのです。しかし修煉は厳粛なことです。師父が「悪い人は嫉妬心の行き着く末に、自分のため、怒りのために、自分のことを不公平だと言います。 善なる人は慈悲心が常にあって、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。 覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」(『精進要旨』<境界>)とおっしゃったことを思い出しました。怨恨の心が残っていれば悪者の範囲に属します。修煉者にとって、善の心を修めることができなければ、本当に危険です。

 以上は私の最近の体得です。不適切なところはご叱正ください。

 2008年6月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/6/12/180112.html