日本明慧
■印刷版   

ハルピン法輪功修煉者・趙慶山さんは残忍な迫害で死亡

(明慧日本)ハルピンの法輪功修煉者・趙慶山さんは、11年の不法判決を言い渡され、大慶刑務所であらゆる虐待を受け、体調が段々悪くなり危篤状態となって、物を食べてもすぐ吐き出してしまい、息も絶え絶えとなり、全身苦痛をともない、自力での生活ができなくなった。

 家族があちこちに奔走・紆余曲折をして、2005年11月に保証人を立て一時出所した。帰宅した趙慶山さんはそれから2年以上寝たきりとなり、2008年6月18日、無実の罪が晴れないままこの世を去った。

 趙慶山さん(57歳)は、元ハルピン蔬菜会社の副社長であった。修煉前、脳の供血不足、右手が麻痺するなど多種類の疾病に罹っていた。1997年法輪功を修煉し始めてから心身が健康になり、中国共産邪党が法輪功を迫害し始めた以後も修煉を継続したため、身を落ち着ける場所がなくなった事もあった。その後、不法に連行され、ハルピン公安七処で拷問を受け自白を強いられたため、体が極度に衰弱し、保証人を立て一時出所した。

 2004年4月、趙慶山さんは北京で開かれた全国人民代表大会と全国人民政治協商会議に集団で署名した陳情の手紙を郵送したことで、ハルピン市公安局一処により自宅から強制連行され、24時間監禁され、2千元をゆすられてから釈放された。

 2000年9月、自宅で皆と一緒に学法していた時、悪人に告発されて連行され、16日間監禁された後、また3500元ゆすられて釈放された。

 2000年11月20日、悪人の告発により、1万部あまりの真相資料を奪われ、28日間留置場で不法に監禁された後、魔窟から逃げ出したが、身を落ち着ける所がなく流浪生活を強いられた。

 2002年1月20日、趙慶山さんは双城市で双城市公安局の副局長、「610弁公室」により不法に逮捕された。当時私服の警官が、長さ2メートル、1寸の太さの白色のプラスチック管で、見境もなく打ち続けたため下着が血だらけになった。その後、邪悪な警官は審問の名義でまた体刑を加えた。

 趙慶山さんを椅子に固定し、後ろから手錠をかけ、口にテープを貼り、靴の先で脛の骨を酷く蹴飛ばし骨が露出した。脚で手錠を踏んで手錠が筋肉を絞めつけたため、手首が腐り、手が饅頭のように腫れ、指を曲げることも出来なくなった。

 邪悪な警官が趙慶山さんに使用した体刑は電気処刑で、気を失うと冷水をかけ意識が戻ると又電気で処刑を与える。そして、「電気で殺すぞ、殺しても無料なのだ!」と言った。

 2003年5月15日、趙慶山さんは再びハルピン市公安局に連行され、予備審査員・趙光と範加遠らにより、拷問、自白を強いられ、拷問で虐待された。顔が変形してしまい、身体は極度に踏みにじられた。その後、動力区の留置場に送られた後、動力区裁判所で秘かに11年の不法判決が言い渡され、ハルピン刑務所に移送された。2004年7月1日に又、大慶刑務所に移送され迫害された。

 2004年7月、家族が大慶刑務所に面会に行った時、趙慶山さんは身体が衰弱しており、2004年10月に家族が綿入れの服を持って行った時は面会を不当に断られた。

 2005年の年明けに家族が遠くから来て面会を要求した時、警官・藩紹林により、ようやく面会が出来るようになった。当時、趙慶山さんは極度に衰弱し、元気がなく、声は微弱で向かい合って座っても声が聞き取れなかった。

 2005年7月14日、藩紹林が家族に、趙慶山さんは大慶刑務所から大慶第四病院に移送して検査治療を受けていると通知した。その後、また大慶油田病院に移送して検査した。病院の検査結果は、脳血栓、高血圧だったが、結果を家族に見せなかった。

 7月26日、藩紹林が家族に、保証人を立てて治療のため釈放するように通知した。

 趙慶山さんは2005年8月1日、保証人をたてて出所を申請し、8月9日に省司法庁からの批准が得られ、ハルピン司法検定センターから大慶刑務所に関連資料を準備するように通知した。しかし大慶刑務所では突然、趙慶山さんの手続きを棚上げした。その理由は「四方聯会」の時、駐刑務所検察院・周××が「趙慶山さんが服役した期間が1/3を満たしていない」と異議を提出したからだ。

 2005年11月保証人を立て出所して帰宅した後、寝たきりとなり2008年6月18日冤罪が晴れないままこの世を去った。

 (注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)

 2008年6月30日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/6/20/180594.html