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最終的に師父と法を信じるかどうかが問題


 文/四川宜賓の大法弟子

(明慧日本)修煉者との交流中、二人の修煉者(以下それぞれ甲、乙と呼ぶ)に似かよっていた体験談を聞くことができた。甲さんについては1999年7月20日の直前に、保険販売員が勤務先まで保険を売りにきていた。甲さんは、もう病気になることはないから保険は買いません、と言った。同僚たちは理解できずに、「人間はご飯を食べる限り病気になるものだ。君だけ特別なわけがないよ!」と笑い飛ばしていた。甲さんは同僚を説得することはできなかったが、それからの病業の関では、ずっと信念を貫くことができた。たとえ生死の境界線を体験するほど大きな難関が迫ってきた時でも乗り越えることができたのだ。今思い起こせば、本当に何でもない些細なことで、苦痛の時間もわずか十数日のことであった。

 乙さんも同じように保険のセールスに遭っていた。ところが、乙さんは保険の金額を見てみたのだ。「保険期間内に1回、健康診断を受けることができます。また、病気になれば医療費も保証されます。3年間医療費が発生しない場合にはボーナスが出て、保険金も返金されます」彼はこの宣伝文句に、つい惹かれて保険を買ってしまったのだ。しかし、それからというもの、修煉しても病気が治らなかった彼女は、さらに病状が悪化し、入院もして治療費も高くついてしまった。「ほかの人が煉功し始めると、たとえ非常に重い病気でも、どんどん良くなっていく……。それに比べて、自分は治るどころか逆に症状が重くなってしまった。どうしてなのだろう?」と乙さんは不思議に思った。回りの修煉者と交流すると、「その保険を買ったのがまずかったのだ」とみなは指摘した。乙さんもそこから、自分には利益に対する執着がある、と認めたのだ。しかし、修煉者たちは表面上のものではなく、さらに深いところに執着があり、最終的には師父や法を信じるかどうかの問題がある、と指摘した。なぜ保険を買ったのか? それは自分のための逃げ道で、万が一、病気が煉功で治らなかったときの逃げ道であって、これこそが人間の執着心なのである。もちろん、乙さんは3つのことも行っており、師父や法を信じていないわけではなかった。とはいえその信念は、まだそれほど徹底的なものでなかったのである。

 実際、私たちが修煉で出会ったことのすべてが、どんなに複雑で重く、悟りにくく見えようとも、最終的には師父や法を信じるかどうかの問題となるのだ。信じる心が足りないことは、信じていないことと同じである。師父は「大法弟子は、圓満成就に向かっていく最後の一歩まで、やり遂げるかどうかの試練を受けなければなりません。修煉が終る前の最後の一歩も、あなたにとって非常に肝心な試練になる可能性もあります。」(『ロサンゼルス市での説法』)とおっしゃってくださった。修煉とはいうものの、何ゆえに修煉をするのだろうか。当然のごとく、師父の法で修煉をするのだ。それも信じない、あるいはみな信じないようであるならば、修煉できるものであろうか? もちろん、私たちは迷いの中で修煉しており、時に一瞬では悟ることができないものだが、それでも師父は許してくださるはずである。法を理解し、認識するにはある過程が必要で、それが修煉の過程でもある。師父は何度も内に向けて探しなさいとおっしゃってくださった。私たちも単なる表面的な形式だけで判断することなく、深く自分の心を探すことで分かってくるのだ。すべてが師父や法を信じるかどうかの問題であることを……。

 個人の理解に過ぎないので、交流できれば幸いに思う。

 2008年7月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/4/181390.html