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執着心が膨張する危険性について(二)

(明慧日本)

 嫉妬心

 「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、皆さんが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心がなものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対にを得ることはできないのです。」(『転法輪』より)

 この説法を読むたび、私はいつも、必ずこの心を取り除こうと決意します。自分はこの面において、まだそれほど強くないようですが、他人と比べたら別に他人を嫉妬することはなく、私が他人に嫉妬されるだろうと思っていました。

 しかし、事実はそうではありませんでした。他人が同修を褒めるのを聞いたとき、自分はどうしてもこの同修の不足について話したくなります。また、同修があることを非常に良くできていたとき、表面的にはその同修を褒めることを言いますが、内心ではどうしても嫉妬してしまいます。いつも、もし私がやればきっと彼よりもっと良くできていただろう、と思ってしまいます。特に、若くてきれいな同修を見ると、いつも心の中で、私が若いときはあなたよりもっときれいだった、と考えてしまい。他の同修が女性として優しい一面を表したとき、私はこの優しい一面がなかった、と思い、自分の心の中ではどうしても自分を飾らないように、などと考えてしまいます。

 これらの考えは、私の修煉の中に常に存在し、意識して必ず取り除くようにしています。でなければ、ますます多くなり、ますます膨張し、そのうちに非常に危険になってしまいます。

 自分を隠す心

 私は交流文を書くとき、たくさんの良いフィードバックをもらいます。一部の同修も私と交流したくなりました。私は、自分の法に対する理解は非常に良くできているので、特に一部の同修が自分と交流しているのを見て、えてして法理をもって相手を説得してしまいがちです。実はその後になって、自分は師父の法理をもって相手に対して強要しているように感じました。しかし一方、自分の執着と不足を隠しています。なぜなら、他人が自分の法理がしっかりしていないことを知ったら、他人は私が言うことを実行できない同修だと思われてしまうからです。

 ですから、他人のことを言うときは、いつも法理に基づいているが、自分のことに触れるといつも避けてしまいます。そのため、他の同修が受難しているとき、自分はこのように非常に爽快な気持ちになってしまいます。実は、自分の不足を隠しているのであって、どうせ自分より良くできていない同修がいるから、と考えてしまうようです。

 口を修めない

 あるとき、ある同修は私と交流して、最後に「ああ、やってしまった。すべてあなたに話してしまったから、世界中の人がこのことを知ってしまうだろう」と言いました。私は初めて、自分が口を修めていないことに気づきました。同修がこのことを言ったとき、私はまだ非常に不満に思い、「私が誰かに言うことを恐れているかもしれませんが、そう思えば思うほど、私はそのようにしてしまいます。その心を放下してください。そうすれば、私は言わないようになるでしょう」と、自分を守るためにいろいろと話しました。

 師父は、『転法輪』の中で次のようにおっしゃいました。「われわれが口を修めるようにと説くのは、次のような場合です。常人の中での捨て難い名利や、社会における修煉者の実際の仕事と関係ないことについて話したり、あるいは同門弟子の間で無駄話をしたりすること、あるいは執着心にされて自分を顕示すること、あるいは聞き伝えに過ぎないなんらかの噂を伝え広めること、あるいは社会のその他の話題に興奮を覚えたり、喜んで話したがったりすること、などです。これらはみな常人の執着心であるとわたしは思うのです。こうしたことに関して、われわれは口を修めるべきだとわたしは思います。これがわれわれの言う口を修めることです。」

 あるとき、天国楽団がオタワ市に行ってパレードに参加するとき、何人もの同修が、「あれ、なぜあなたは行かないのですか」と聞いてきました。なぜなら、私はいつも天国楽団に参加して、そして記事を書くことを担当していました。たくさんの同修が私に聞いてきて、「私は何もできません。何のために行くのですか」と答えました。近くにいた同修が冗談で、「ほら吹きなら、まだできますね」と言い、周りの皆が一緒に笑いました。これまでだったら、私は普通の冗談として一緒に笑って過ごせましたが、修煉者としては何も偶然ではありません。私は自分自身に問いかけました。私は本当にまじめに口を修めたのでしょうか。なぜなら、私の特徴として、何かを見ればすぐに言ってしまいます。他人が受け入れることができるかどうかは別として、他人が傷つくかどうかは別として、私はただちに率直にすべてを言ってしまいます。言った方が自分が気持ち良くなり、私の夫の話で言うと、話をする前に頭で考えない、という状況です。ですから、同修に言わせれば、私の口先は、大砲を常に発射でき、火がなくても発射できる、と冗談を言いました。

 この前、ニューヨークに行くときに、私の運転していた7人乗りの車に7人が入り、もう一台の5人乗りの車には3人しか乗っていませんでした。私は自分の車にいた同修に、誰かもう一台の車に乗るように言いましたが、誰も行きませんでした。理由は、私といろいろな話ができて楽しそうだということでした。このように、私のほら吹きを聞く同修が喜ぶほど、私の執着も膨張してしまいます。最後に、話を聞く同修たちの笑いが止まらなくなるのを見て、私はいつも非常に自慢に思っていました。

 このように、口を修めないことで、私のたくさんの執着心が暴かれます。顕示心、歓喜心、他人のために配慮しない心など、同時に私の修煉において大きな魔難をもたらしてしまいました。非常に危険な状態です。これこそ、師父が同修の口を通して啓示してくださっているのであり、私に口を修めるように啓示を与えてくださっているのだと理解しています。

 特に、他の同修が受難しているとき、自分の口を修めず、かえって難の真っ最中にある同修を支持しないことで、同修に悪影響をもたらしてしまいます。ですから、口を修めることは自分にとって非常に重要であるので、今後、この面において努力していきたいと思います。

 師父は「」とおっしゃいました。

 師父はこれほどはっきりと説法されたのに、私達はまだ内に向けて探さないで法を実証していられません。師父に対して申し訳ないのではありませんか。もう一度、本文の最初に書いた、私にアドバイスをくれた同修に感謝します。私に、自分自身に内に向けて探すチャンス、つまり向上するチャンスをくれたのです。

 良くないところがあれば、ぜひご指摘をお願いします。

 2008年7月23日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/7/10/181786.html