執着を放下すれば修煉は難しくはない
文/李進成
(明慧日本)修煉者であろうと、常人であろうと、生きることは苦しいものです。しかも、非常に苦しいものであると感じているに違いありません。問題に出会ったとき、永遠に自分自身を見ようとしませんが、修煉者は常に自分自身の問題の所在を見出さなければなりません。
ある精進する大法弟子は、常人の中の矛盾にあったら、常に師父の説法を思い出します。たとえその問題が非常に差し迫っているとき、または自分の利益に関わるときであっても、常に自分の問題を見つけ出そうとします。自分の執着を見つけてから自我を放下し、自分に対する執着を放下しとき、あなたは、修煉は何と簡単なことである、何と楽しいことである、とある種の解脱を感じます。もちろん、この種の楽しさとは、常人の言う快楽ではなく、それは非常に静かで理性的で、悠然とした微笑で、そのとき師父があなたに微笑んでいると感じるでしょう。もし、修煉者が精進しなければ、問題にあったら常人のように外に向けて探し、非常に苦しくなります。
常人の執着心を放下できないとき、苦しく感じます。自分自身を放下できなければ、不平不満の心が生じてしまいます。続いて、悟らなくなり、何事も自分の運が良くない、どうして他人はいつも自分に対してそれほど良くないのかと、不平不満を言うでしょう。競争心やさまざまな人心を放下して、初めて苦を感じなくなり、かえって非常に楽しく感じます。
常人は永遠に利益や自我を放下できず、自分は永遠に正しいものであり、間違いをしても心の底から間違ったとは思いません。常人は、金、権力、政治闘争のために一生を費やします。名、利、情とは、常人が動き出す原動力となります。これらのもののため、人は手段も選ばず、目標達成に奮闘します。中華民族の伝統的な美徳は、これらのものの前では全く無価値なものにされてしまいます。これは、中国共産党文化の邪悪さゆえんです。しかし、修煉者はまさにこれらの名、利、情などのものを放下しなければなりません。
大法弟子とは、他のために存在し、常人の中のあらゆる利益を追求しない存在です。命の危険を顧みず、真相を伝えるために行ったすべてのことは、人類の道徳を回復させ、人々が救われるためです。もし、人々が矛盾の中で、自分の問題を真っ先に見つめなおし、皆が相手を尊重すれば、大法弟子の本当の次元の表れとなります。もちろん、今私達が行っていることは、師父が求められている無私無我の境地まで、まだ大きなギャップがあると思います。同修たちよ、精進しましょう! 苦しいと感じたときは、自分の間違いや不足を探さず、大法の修煉者に対する要求を忘れたからです。自分の執着と自分に対する執着をを放下できれば、修煉は本当に楽しいものです。
2008年7月31日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/29/182793.html)
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