日本明慧
■印刷版   

誤解と修煉


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)この前、ある同修は「7年間にわたる資料点での生活」という交流のための文章を書いた。文章では、多くのトラブルを「誤解」によるものとしていた。また多く交流することによって解決できるとも述べていた。実際、多くの場合には交流する機会がない。また交流とは人間が「問題を解決する方法」で、本当に旧勢力を否定することではない。さらに修煉者に対する真の昇華でもない。 

 修煉の中、同修の間では交流できないとか、解釈できない場合があまりにも多い。 

 例えば、私は初めて「オーストラリア学習者に対する説法」のビデオを見たとき、録画の技術レベルがあまり高くないと感じた。しかし、考え直してみると、会場の装飾はとても慌ただしくて、ほかの交流会ほど厳かでも豪華でもなかった。見たたところ、海外の同修らが行うにも、とても容易なことではなく、私達大陸の同修には想像もできないほど多くの難しさがあると感じた。その後、明慧ネットにはビデオを撮った同修がよく録画できてない、これは師父に対する不敬、法に対する不敬である、と書いた交流のための文章が何篇が発表されたが、大多数は大陸の同修が書いた文章であった。 

 私が思うに、私たち大陸の同修には気づいてない点がある。説法会場は簡素ではあったが、説法を聞いている同修らはみな背筋をまっすくに伸ばして座っており、撮影された画面から見ると、録画する同修は師父の動きに合わせて移動しながら絶えず調整している。また中国語、英語の音の調整を何回もしていることからみても、同修は非常に気を遣っていることが分かる。なおかつ、録画をしていた同修は必ずしもプロとは言い切れないのだ。海外の同修は多忙かつ人手が非常に不足した状況下で、常に録画のプロを探せるのだろうか? 

 これらの面から見ると、海外の同修が師父に不敬で、法に不敬であると言えるのだろうか? 大陸の同修の非難に対し、海外の同修は解釈すらできない状況、すなわち「交流」できなかったのだ。師父の説法のCD-ROMに対して、あるいは一度も会ったことのない、いかなる心性の摩擦もなかった海外の同修に対して、私たちの心理状態がこのようであることから見ても、自分のいる地区の資料点の同修に対して考えがどうなっているかは想像に難くない。 

 私が思うに、肝心なのは同修らの中に普遍的にトラブルがやってきたとき、自然と外に向かって探しており、他人の不足をつかんで非難することが癖になっていることである。この心はほとんど私たちの心の深いところにしみ込んでいて、いたるところに現れてくる。 

 確かに多くのトラブルは誤解により生じ、確かに旧勢力、黒い手、悪い神らが大法弟子の間に間隔を作っている。しかし、あれらが私たちの間に間隔を作れるのは、私たちの間に間隔を作れるような状況があるからなのだ。あれらを否定する最も良い方法は、私たちが自分をよく修めると共に同修の不足に対して(旧勢力によって作られた間隔であっても、同修が本当によくできていないことであっても)寛容なる慈悲の心を持って邪悪が隙に乗じる機会を与えず、なるべく法を正すことに損失をもたらさないことである。 

 例えば、《九評》が発表されたばかりの時、私たちは《九評》はほかの真相資料と一緒に配ってはいけないと分かっていた。しかし、間もなくして大きな資料点では大法の真相資料と九評を一緒に編集していた。このことに対し、大きな資料点の同修を非難する同修、ひいては資料を配らなくなった同修もいた。数年後、私は当時、明慧から通知があって、大きな資料点が九評と大法の真相資料を一緒に編集していたことがやっと分かった。もちろん、多くの同修はこのことを知らなかった。後になって師父は、このようにすることの原因について説法をされた。しかし、このことの解釈をいただけなかったその間は、ちょうど私たちに与えられた修煉の機会ではなかっただろうか? 私たちは資料が正しいか、間違っているかを放下して、まずこのことに対する自分の心理状態を見てみたのだろうか。他人の「間違い」を許すことができず、つかんで放さないのか、それとも共に圓容して、法を正すことを助けるという純粋なる善の心を抱えているのだろうか? 実際、修煉の中、どのくらいの同修がこのように自分を修め、自分に向かって探しているのだろうか? 

 もうひとつの例として、この前、明慧衛星ラジオの煉功音楽の放送の時間帯が、朝の煉功時間に間に合わない問題があった。一部の同修は何回もこのことについて触れ、言葉から発せられる情報は、あなたたちが間違ったことで私たちの煉功に影響が出てしまったので早くなおして下さい、ということだった。連続して数日間、朝3時 50分の明慧ラジオ局の放送で煉功音楽以外の番組を受け取ったとき、静かに自分に向かって探す同修はどのくらいいたのだろうか?他人の「過ち」に対して、私たちの一念は他人に直してもらうべきことなのか、それとも表面的な過ちは放下して自分に問題があると見るべきなのか? 

 私は資料を配布したことや、小さい資料点を運営したこともあり、技術的なことをしたこともある。それから大きな資料点でも一部の仕事をしてきた。その中で、様々な心理状態を体験してきた。同修間の冷たさと暖かさも体験してきた。実は、「冷たさと暖かさ」とは常人の言葉である。なぜならば、それは私の修煉の環境であり、私が歩むべき道でもあるからだ。かつてもっとも私を刺激したのは、一人の協調人が強制連行されたのち、その同修とトラブルがあった周りの同修が抑えきれない「歓喜心」を感じたことだった。このようなことは私が路頭に迷うようになったときにも起きた。 

 このような刺激に対して、私は思い切って次の心をすべて修め、捨てるよう決心をした。すなわち他人の欠点を探す心、同修がよくなることを嫌がる心、他人にトラブルが起きたことで自分が正しいと実証する心などである。 

 何回かの心をえぐるような苦痛に耐え、内に向かって探すことを通じて、私はやっとこれらの悪の物質を捨てるようになり、私の心は常に善と慈悲で満ちるようになった。 

 資料点と自宅での同修間のトラブルの存在は、本来双方が共に向上する良いチャンスである。なぜならば、わたしたちは修煉しており、共に仕事を分けて行なっているわけではないからだ。もし大法を実証することを第一位にして、さらに内に向かって探すことができれば、環境はますます良くなるはずである。

 2008年8月3日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/29/182988.html