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修煉体験談で師父の説法を引用することにおける「師父と法を尊敬する」ことについて


文/正心(中国大陸)

(明慧日本)最近、一部の明慧ネットと正見ネットで発表された修煉体験談の中で、師父の説法が引用されている部分で、句読点がなかったり、師父の説法の一文またはごく一部だけを引用したり、自分の文章の一部となってしまった例がありました。このようなやり方は正しくないと私は思います。

 これまで、私は修煉体験談を書くとき、同修はいつも私の問題点を指摘してくれました。それは、師父の説法をあまりにも多く引用しすぎて、あたかも師父の説法をもって自分の悟ったことを証明しているかのように感じたようです。それ以来、私はこの問題点に気をつけて、修煉体験談を書くときは師父の説法をあまり大量に引用しないようにしていました。しかし、長い時間修煉してから、これは小さいことであるが、師父と大法を尊敬していなことであると気づきました。このような極めて正しくない心構えは、自分がまだ私を取り除いていないことが原因で、すなわち自分自身を実証したいことによってもたらされたことです。また、自分が体験談を書くときに、自分の観点を書き出して人を変えたいと思っているのであって、師父と法を尊敬する清い心で書いていません。すべては師父が行なっているのであって、大法だけが人を変えることができます。ですから、法を心の中で無上に置き、自分の限られた考えを書き出すのも、法を実証するためです。師父と法を尊敬する心構えがなければ、どうやって法を実証するのでしょうか。

 私はいつも同修と交流するとき、師父は〜とおっしゃいました、と言い、さらにこれは原文ではないと付け加えていました。後に、同修たちは皆、師父の説法を引用するとき、必ず師父の説法そのものを引用すべきであって、はっきり覚えていないときは、自分の師父の説法に対する理解しか語ることができないはずです。これは、師父と法を尊敬しているのではなく、師父の法をもって自分自身を証明する心があるのです。これも、私達の中にある私の要素が葉足りているのです。

 師父と法を尊敬する問題に気づいてから、私は体験談を書くときに必ず自分の心構えを注意していました。そして常に、自分のすべての背後には師父の法身があるので、私はただ自分の法に対する限られた認識を書いているのであって、この過程で人を変えようとする自分自身を実証する心が、少しずつ消えていきました。

 最近、私は『精進要旨』と『洪吟二』を読んでいます。「堅定」の中の「精修者は心篤く円満(成就)す」の意味について悟りました。大法に対する謙虚な心、信じる心を持つことは、大法弟子が円満成就できることの基本的な条件です。真に師父と法を尊敬できる命は、刻一刻と師父と法を至上の位置に置き、まずいかに大法を実証できるかを考えるのであって、己の個の要素はなく、完全に私から脱却できることになります。それこそが新しい宇宙の命です。

 ですから、同修たちは今後、師父の説法を引用するとき、師父と法を尊敬することについても注意しましょう。

 2008年8月14日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/8/8/183601.html