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神通力に関する二言三言

(明慧日本)数日前に明慧ネットで、ある同修が意念(神通)を使って息子さんと交流するという文章を見ました。それを読んで反省させられることがありました。

 どうして私たちは普段真相を伝える時、何かあった時に「神」になれないのでしょうか? 私なりに下記のことを考えてみました。

 一、自分を神と見なしていない

 『転法輪』の第三講で師父はこのように説法されています。「それからこのような人もいます。以前体に憑き物があると人に言われ、自分自身もあるように感じましたが、取り除いてあげてからも、気病みが消えず、いつも以前の状態がまだ残っていると疑っているのです。これは既に執着心になっており、疑心といいます」。私が思うには、これはすなわち、師父は一切の神通力を既に私たちに下さっているのです。何もかもできる私たちは人間としての感覚を重んじ、「神なのか?」と疑っているのです。根本的なところでは、これは師父と大法をどこまでも信じ切れていないからですが、このような執着心、疑心はすべて除去すべきではありませんか?

 二、人心が優位にある

 「何爲人? 情慾滿身。何爲神? 人心無存」(『洪吟』<人覚之分>」。何をもって人と爲すや?  情慾、身を滿す。何をもって神と爲すや?  人心存する無し(日本語訳)。明慧ネットで同修の交流文章を読むと、危険に瀕している時でも、人心ではない状態の時に神通力を応用できています。もし、人心が多く、または人心が優位にあれば、神通力も現れないでしょう。

 それなら、どうすれば人心が薄くなり、神の念が強くなるのでしょうか? 師父の教えに従い、法を多く学ぶことだと思います。何かに遭遇した時、神としての一念が出れば、どんなことでもよく対処できますし、迫害も存在しないでしょう。これこそが師父が与えてくださった神通力ではありませんか? 決して自らの能力を軽く見ないでください。百年千年でできた人間としての観念を除去しましょう。それを取り除かなければ、永遠に人間でしかありえません。

 全世界の大法弟子よ、本当に神になれるよう、精進しましょう。

  上記は個人の認識であり、適当でないところは指摘いただきますようお願いします。

 2008年8月16日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/4/28/177369.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/5/13/97261.html