日本明慧
■印刷版   

「謙虚」について


文/朶朶蓮

(明慧日本)同修がうぬぼれて、いつも他人に教え、調子がよいのを見て、私はとても気分が悪く、同修があまりにも謙虚でないと思っていました。

 反対に自分を振り返って見るとき、私は本当に謙虚ですか? どうして同修の態度を見て納得せず、甚だしきに至っては不満に思うのですか?

 内に向かって探してみると、私はただ「謙虚」という形式だけが好きで、謙虚、内向的、誇張しない方式が気に入っているだけで、実際には私も謙虚ではありません。

 もし誰かが私を褒めるならば、私は直ぐに「私は駄目」と言います。実は「私は駄目」という言葉はただ一種の習慣的な口癖で、本当の考えは「私は悪くありませんよ」です。

 更に、同修は今文章を書く人手が足りないと言い、私にこのことを引き受けるよう勧めた時、私は直ちに、「私は駄目」と言ってしまいました。この話は真剣に考慮して言ったのではなく、全く習慣的に自分は謙虚であると表明しているだけであり、「こんな大事な事に対しても、謙虚ではない」というのが私の真の心理状態でした。本当の考えは、「できないこともないですよ」です。甚だしきに至っては重い責任を委ねられてうれしくさえなったのです。

 時には自分の弱点を誇張することもあり、思い悩んでいる様子で、実は、心の中では他人に認めて貰い、他人に自分が謙虚である、向上心があると認めてもらいたいのです。

 時には自信のない謙虚は卑屈です。大法弟子として、師父と法に対する信念が不足しているのです。

 ここまで書いてきて、私は思わず顔が赤くなりました。以前、ある人は執着があり、いつも自分で隠すと言っていましたが、自分も覆い隠しているとは思ってもいませんでした。しかも覆い隠すことがとても「上手」で、気付かれにくいのです。同修と比べて、私は本当に同修ほど堂々としておらず、彼のうぬぼれは見て直ぐに分かり、少しも覆い隠していません。しかし、私の方は隠しながらも少し表し、言うなれば偽り者です。どれほど不浄な心なのでしょうか!

 自分が本当に謙虚ではないため、同修がうぬぼれている様子を見ると心が動じるのです。

 本当の謙虚さは度量のある態度であるべきで—虚心坦懐、低い姿勢であるべき—海はすべての川を受け入れています。私の悟りでは、謙虚の中に真・善・忍があります。慈悲のある和やかで寛容な修煉者は本当に謙虚です。どのような環境に臨んでも—称賛或いは非難、よくやった或いはよくできていない等に対しても、すべて穏やかな誠実な心をもって対応することができ、心が動じることはありません。

 謙虚でないのは執着心があるためです。顕示心、嫉妬心、闘争心、歓喜心などが人の考えを占めているとき、謙虚であり得るでしょうか?

 したがって、修煉者は必ず謙虚な人です。精進した修煉者は、きっとますます謙虚になります。

 妥当でないところはご叱正をお願いします。

  2008年8月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/8/8/183607.html