日本明慧
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「私(し)のため」、「自分のため」という執着を探し出した


文/長春の大法弟子

(明慧日本)突然、「私心」は私の中でどこにでも存在していると気付きました。学法をするのは私の次元の突破のため、真相の説明は私の威徳を積むため、発正念は私が迫害されないために行なっていました。真相の説明をしている時に言い返す人、受け入れぬ人にはさらに言うこともせず、甚だしきに至ってはこう思っていました。「このような人に未来に入る資格などありません。淘汰されようが、彼一人いてもいなくても問題ないでしょう」と。家族への寛容と忍は、自分の修煉を邪魔させないためでした。私が料理を作るにしても、彼らが何を食べたいのか、いつ食べるのかで作ってはいなかったのです。私が作りやすいかどうか、面倒かどうか、時間がかかるかどうかで作っていました。もし、美味しくないと言われたならば、不機嫌になっていたのです。また、ある日、仕事のひけた夫が家に帰って来て、会社の人が「オリンピックの聖火がここまでやって来るんですね」と言いました。すると夫は「法輪功は騒動を起さないでくださいね」と私に言ったのです。私はそれを聞いてすぐに怒り出しました。  

 こんなに多くの人心をなぜ、私はなくさないのでしょうか? 私は修煉者と言えるのでしょうか?「無私無我で、他人を優先し、自分を後に」という覚者になるよう修めるのではありませんか? ののしられても心は動じないのではありませんか? これらの心がすでにとても弱くなっていることを私は知っているのです。私はこれらを探し当てます。そうすれば、すでにこれらの存在はなくなっているはずですから。

  2008年8月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/8/7/183597.html