日本明慧
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中国人に向けて真相を伝える中での体得(二)


文/ワシントンDCの大法弟子

(明慧日本)

 三、メーリングリストで真相を伝える

 学校のCSSAメーリングリストに900人以上の中国人が参加しています。今年4、5月ごろ、メーリングリストにオリンピックを機にナショナリズムを扇動するメールが現れました。このような中国共産党の顔を飾り立てるメールを見て、私はとても焦りました。たくさんの中国人が冷静さを失ってナショナリズムに熱狂し、騙されるがままに中国共産党の味方になることを見てはいられません。彼らに真相を伝える前に、中国人留学生が一体どれほど真相を受け入れられるかを調べようと決めました。

 ある日、CSSAに人権関係のシンポジウムの開催を知らせるメールが配信されて、そのメールに「発表内容が悪かったらみんなで抗議をしよう」と呼びかけていたので、私も参加しました。シンポジウムが終わる時に何人かの中国人と会って、彼らに真相を伝えました。彼らは抗議しに行ったのかと思いましたが、結局彼らは人権問題に対して私が想像した抵抗を抱えておらず、真相がとても順調に伝わって、彼らは何時間も興味津々に私の話を聞きました。これで、多くの中国人は私が想像したように偏狭ではなく、メーリングリストで煽動するのは数人しかいないことが分かりました。

 このことを通じて、私はメーリングリストの数百人の中国人に真相を伝える決心をしました。オリンピック憲章は普遍的な道徳を尊重し、社会の平和と人類の尊厳を守ることを最高精神としています。中国政府がオリンピック開催権を申請する時、人権の改善、インターネット封鎖を解除することなどを承諾しました。その承諾を実現してインターネット封鎖を解除し、労働教養制度を廃止し、信仰を持つ人たちを釈放するだけで全世界の人に賛同され、誰もが抗議なんかしません。人権改善は中国の民衆に本当に有利なことです、と穏やかな表現でメールを書いて配信しました。

 メールを出した後、私は攻撃される覚悟をしました。それでもかまいません。私が公に話せることでたくさんの人に大法の真相を知る機会を与えたらよいと思います。メールは大きな反響を巻き起こしました。何通もの応援メールが送られてきてとてもあり難いのですが、私一人だけに送られています。また何通かのとても悪辣な言葉で私と大法を罵るメールがメーリングリストの全員に送信されています。また、私と討論をしたいメールもありますが、彼らのメールには多くの党文化の面影が残っています。

 私のメールの最後には名前、私個人のホームページと私の書いた文章のリンク先が自動的に付いています。私を知らない人に大法弟子が決して中国共産党が言うような愚かで無知な人ではないと知ってほしいからです。真相を伝える時、私はとても姿勢を低くしています。ストレートに私を罵る人に対しても優しく真相を伝え、党文化にひどく溺れている人に対して、中国共産党が国民を虐殺して、国土を勝手に他国に譲る事実などを教えます。いずれもメールの冒頭に「あなたの所見に賛成できなくても、私と討論するために連絡してくれることに感謝しています」と書きます。

 ある参加者が「あなたが言った迫害に同情しません。たとえ中国共産党が8000万人を殺したとしても、13億に比べればたいしたものではありません」と言いました。このメールを見てとても心が痛くて、どのように返事をしたらいいかが分かりませんでした。そのメールには党文化の観点が溢れていて、どの観点に対しても分析、解明するにはたくさんの文字を書かないといけません。しかし彼がそんな膨大な内容を真剣に読んで考えて、一晩の間にすべての党文化を頭から取り除くことはほぼ不可能です。

 私が考えこんでいる時、妻は、道理と数字よりも、私自身と家族の体験及び迫害されて死に至ったある大法弟子のストーリーを語ったらどうですかと提案しました。この提案はとても良いと思って、生き生きとした言葉で2つの真実の迫害のストーリーを語りました。そして、オリンピックのために必ずこのようにしなければならないでしょうか? この人たちを必ず捕まえて、打ち殺さないと権力者は安全を感じないでしょうか? 北京のずらりと並ぶ摩天楼がオリンピックのために夜空を明るく飾る時、私達が競技場の勝利のために歓喜の叫びをする時、必ずこの人たちの苦痛、辛酸、涙、血、自由と命を代価にしなければならないでしょうか? それは重すぎませんか? インターネットと言論の封鎖をゆっくり解除しても良いと思うかもしれませんが、この人たちを一日も早く苦痛から救うべきではありませんか? 中国人同士が殺し合うのは何のためですか?

 翌日の明け方に彼の返事がもう来ました。彼は「あなたがCSSAに送った新しいメッセージを読みました。あなたの個人的な経歴にとても驚きました。今、とても恥ずかしくて、以前あなたに送ったメールを撤回したい気持ちです」。

 その後の1カ月間、特に四川大地震とフラッシング事件の後、何人かが私に真相を尋ねるメールを送ってきました。私も彼らと多くのメールのやり取りをして、中国共産党が地震予告を隠蔽したこと、及び共産党の腐敗の下で造られた「おから工事」こそ地震の死傷者への「真犯人」だと指摘しました。私を罵る人たちが使った言葉はフラッシング事件の中国共産党の共犯者に負けないほど汚いのですが、一方、多くの人が大法の真相を見て私を応援し、私を罵る人を非難していました。

 四、真相を伝える過程は「真・善・忍」を修煉する過程でもある

 真相を伝える中で、私はずっと謙虚な、理性的な、穏やかな姿勢を保っています。今度の体験からたくさんのことを体得しました。今まで真相を伝える時、人の間違った認識に対してピシッと大量の事実と厳密な論理を羅列して指摘しました。これはメディアを相手にして真相を伝える時には良い方法であるかも知れませんが、理性的ではない人に向かって真相を伝える時、適切な方法ではありません。今回、私は今までの「あなたは間違っており、私こそ正しい」という傲慢を捨てて、姿勢を低くしました。もちろん、大法の原則に符合した上で謙虚な態度をとるのです。海外にいる中国人は皆プライドが高くて、たとえ論争で彼らに勝ったとしても、真相を伝える効果が良いとは限りません。

 師父の一言に私の心はすごく打たれました。「釈迦牟尼佛は本当の法を説かないのではなく、イエスは人間に明白に法を説きたくないのではなく、人間はそれしか聞くことができないのです」(『ニュージーランド法会での説法』)。 この話の中から私は「真・善・忍」の法理を多く悟りました。真相を伝える時、高次元の話を言ってしまって、これこそ「真」だと思う人がいます。実はこれは「真」とはいえません。相手が自分の話を受け入れられるかを思いやってあげないことは、「善」が足りないことです。もしまた顕示心があれば、さらに「忍」も足りないことになります。「真・善・忍」に全て符合できた「真」が、はじめて本当の「真」と言えると思います。

 逆に言うと、聞く側の受け入れるレベルを配慮するために原則を放棄することは、表面上「善」に見えますが、「真」を失ったため、本当の「善」は成り立たないと思います。 

 また今度のことは私に謙虚の力を示してくれて、謙虚の法理を私に考えさせました。

 私はよく学法の中で、大法の計り知れない知恵と奥深い法理、及び自分のちっぽけさと浅薄さを感じます。2006年のころ、ある同修が私に10数年の修煉の最大の体得を尋ねた時、私は「修煉者は必ず謙虚になるべきだ」と即答しました。また、ある同修に嫉妬心があると言われた時、私は、私より能力が高い人を見たら心の底から敬服して、優れた文章を見たらいろいろなウェブサイトとプロジェクトに推薦しており、人を嫉妬したことがない、と弁解しました。自分は謙虚で嫉妬心がない、と私はずっと思っています。

 同修と一緒にプロジェクト行なう時、ついにある日、難関を突破する中で私は突然、自分が少しも謙虚でないことを意識しました。なぜかというと、私の謙虚は大法の前で、私より優れた技能を持つ人の前だけに存在しており、私より能力が低い人の前では、私はたいへん自分の意見を堅持します。

 海が百の川(無数の河)を受け入れられるのは、海が百の川より低いからです。一緒にプロジェクトをやる時うまく協力できず、自分の意見が受け入れられないのは、その意見がよくないためでなく、自分の心に問題があるからだ、と私は悟りました。大法に基づくのでなく、自分が如何に正しいかばかりを思って出した意見は、もちろん聞く側に受け入れられません。同修と交流する時も、前回常人に真相を伝えた時の謙虚な態度をとれば、もっと良い協力ができたと思います。だから本当の謙虚とは、常人の技能の面で謙虚になるだけでなく、人が大法に基づく見方を尊重する姿勢も問われます。

 私はまた嫉妬心について反省しました。嫉妬心は謙虚の問題とまったく同じです。私はよく自分が嫉妬しないと思っていますが、実は、私は常人の技能に嫉妬しないだけに過ぎません。師父は『転法輪』で申公豹が姜子牙を嫉妬することについて言及されました。申公豹は姜子牙の才能に嫉妬するのではなく、姜子牙が年をとって能力もないのに、原始天尊がこの姜子牙に神を封ずることをやらせることについて不平を感じたのです。

 多くの時、私の嫉妬心は表で見えないほど深く隠れています。例えば、自分の技能がどれほどあるとか、私は何々をするべきとか、どうして彼の意見が採用され私の意見が採用されないかを考えます。円満成就してからは、今の同修とは再び会うことがないと、師父は何回も私達に教えられました。常人の中に置かれている現在、少々の意見が合わないからといって、協力してより多くの衆生を救うことを忘れたらいけないのではありませんか。

 私が抱える「謙虚」と「嫉妬心」の執着は、常人の技能に対する重視から由来する部分もあります。もちろん、技能が重要でないと言っているのではありません。神韻芸術団の訓煉から技能とプロフェッショナルの重要性が分かったと思います。しかし、技能を重視しながらそれに執着しないことが、真に修煉者が歩むべき正しい道だと思います。

 私はいつも理性的に真相を伝えたいので、同修が常人に高次元のことを言うのを、あるいは同修が穏やかではない言い方で真相を伝えるのを見て、常人がこのような話を受け入れられるかと心配します。私達は真相を伝える手段、方法について討論もしました。私達は常人の中で修煉しているために、とても容易に常人の中に陥るのですが、大法は常人レベルを超える存在です。弟子の思惟は千差万別で、みんなが同じ方法で真相を伝えることはあり得ません。もし私が自分の慣れた方法を捨てて、人の方法を学ぶのが嫌であれば、人も同じように彼自身の方法を変えるのが嫌なのです。相手の立場をたくさん考えてあげて、相手のやり方が大法に符合しているのであれば、これこそ円容になったといえるでしょう。 

 以上は数年来の少しの修煉体得で、適切でないところは慈悲なるご叱正を願います。

 (2008年ワシントンDC法会での発表原稿)

 2008年8月19日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/21/182457.html