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内に向けて探し、執着を放棄して、真の弟子になる


文/大陸の大法弟子

(明慧日本) 今日私はもう一度、師父の『オーストラリアの学習者に対しての説法』のビデオを拝見し、更に深く師父の洪大な慈悲を体得しました。師父は再三、必ず内に向けて探すようにと言われました。慈悲深い師父に対面し、心より師父に合わせる顔がないと深く思っています!

 私は正念を発する時、かつてとても長い間、手をじっと立てていられなくて、自分でもとても焦りました。時間になると、手を自分自身で制御できなくなり、主意識が少しでも緩むと、手はすぐ倒れてしまいました。同修の助けで、私は自分の内に向かって探し、恨む心とバランスがとれない心を発見し、そのために心性が向上せず、邪悪に隙に乗じられたのです。理解した後に、私はすぐ手を立てて、これらの良くない心を一掃しました。一掃する時、私は主意識が緩むことなく、念力を一心に集中させました。一緒にいた同修はみな喜んで、立てた手は本当に良く、蓮花手印は本当に大きいと言ってくれました。師父の話を聴いて、一心に内に向けて探した結果であると同時に、同修から助けられた事に大変感謝しています。今私の発正念は、ますますはっきりして、立てた手はますます良くなりました。ここで私は、発正念時に手を正しく保てない同修に、急いで内に向けて探すように、すぐ流れ去ってしまう、千金、万金に値する貴重な時間を無駄にしないようにと言いたいのです。

 私と同じような同修はいつもこう言います。「どのように内に向けて探したのですか? 探すことができません!」。実は表面上のことに惑わされてしまえば、この時に見たのはすべて、目の前の誰が是で誰が非なのかの事で、それに動かされ、外に向けて探したのです。もし、外に向けたものを内に戻し、事の出発点を見てみると、どんな基点の上に立っているのか、その時の心理状態は慈悲であるのかどうか、他人のために考えたのかどうか、このようにすればあなたは内に向けて探し、自分の不足を探し当てることができます。

 もし、あなたが本当に師父の教えられた「無私無我」を達成することができるならば、人はあなたの慈悲の場で、一定のなごやかな雰囲気を感得するはずで、トラブルなどはあり得ません。もしあなたが考えるのが、自分のことならば、それはつまり個人のためで、実は、自我に執着している心が邪魔をしているのです。本当に、平然と放下できた時、何も失うものはありません。

 長期にわたり、病業の関を乗り越えられない同修がいて、同修は彼女に内に向けて探すよう勧めましたが、彼女は探すことができないと言いました。人は彼女が情に執着し、常人の生活に執着していると指摘しましたが、彼女は改めませんでした。実はあの執着して放さない心に触れたくないのです。以前、同修はいつも発正念で病業の関を乗り越えるように手伝いましたが、何日か後、また病業の幻相が現れるのです。また発正念で妨害を一掃するように手伝いましたが、彼女に依頼心が生まれてしまいました。それから、ある同修は黙々として、彼女のために発正念を手伝うだけで、彼女に教える勇気がありませんでした。この数年間、彼女はずっとこの状態で、ある同修は彼女に対して、もう無関心になりました。時には、彼女が法に従って行動していないことも知っています。しかし、あなたは師父から隠れることができますか? 他の空間から、いつもあなたを虎視眈々と狙っている邪悪から隠れることができますか? 特に年をとり、自分の生命が延長されているのをはっきりと知っている同修たちは、師父から延長された生命で、完全に法を実証するよう誠実に修煉すべきです。

 ある同修は、法に従って行動せず、口実を探します。「しょうがない、もし常人に符合しないならば、常人は私達を理解しません」。師父は最大限度に常人に符合するようにと教えられませんでしたか? これは師父の説法を曲解していると思います。もしあなたが完全に常人に符合するならば、あなたは常人ではありませんか? あなたは、まだ修煉している人ですか?

 肝心な点は、まず異なる次元での修煉者に対する要求に合って、この基礎の上で最大限に常人の状態に符合して落ち着くことはできますが、しかし常人にあなたを理解させるために、修煉者の基準に合わないのはよくありません。ある同修がまた、口実を探して、師父が私達を常人の中で修煉できるようにされたので、残っている執着を最後に師父が、爆破してくださるまで待っていると言います。それでは全く修煉する必要はなく、師父が直接あなたを天に昇らせてくださればどんなに良いでしょうか。一人の人間が佛にまで成就する事は、偉大でまた厳粛な事です! もしあなたが執着を固守して、放さないならば、最後の時、他人の園満成就を見ていることしかできないのではないでしょうか。千万年待って、逃すとはどんなに惜しいことでしょうか!

 このことを悟ったので、話しました。実は私はいつも同修に不足を注意し指摘され、気付きます。みんなが一緒にこのようにして互いに助け合って注意し、同時に内に向けて探し、そして、共に向上することができます。以上は個人で悟ったことですが、不足なところは慈悲でご指摘をお願いいたします。

  2008年8月22日


(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/8/15/184046.html