■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/08/28/mh283158.html 



心が動じてはならない

(明慧日本)実は、常人が常人の中で予言について語るのは正常な話で、常人が常人の間で語るのは問題ではありません。もちろん、学習者が人を救い済度する起点からして、常人に対して語っても問題にはなりません。しかし、重要なのは、学習者が自ら予言に執着してはならず、自分の執着から学習者の間、または常人に対して、常人のことについて大々的に語ってはならないのです。

 実は今、たくさんの同修があまりにも予言に執着しすぎています。私は、その予言自体は大したことではなく、本当に予言通りに起きたとしても、私達たくさんの学習者が自分自身の心で執着してしまい、それについて動じてしまいがちです。聞いたり見たりしても、それを顕示してはならず、執着してもなりません。言ってしまえばそのものが変化してしまうかもしれないからです。

 もう一つは、修煉は何を基準にして修めるかということです。もし、予言を基準にして修めれば、このやり方では大法に不敬だと思います。予言が法よりも高いと見てしまったら、本当に問題だと思います。予言を見たらそれでよいし、毎日予言のことを考えてしまえば、法と修煉を傍らに置いてしまうことになり、それこそ本当に問題になります。

 心が動じないということは、実は容量の問題になります。つまり、どんなに多くのものを見ても、どんなに大きいものを見ても、心は動じず、ただひたすら法に従って着実に修めることが真に重要なことなのです。一人の修煉者の容量は、その心と大きな関係があると思います。

 長年の間、私達があまりにも良くできておらず、たくさんのことについて師父も説法されたのですが、あまりその問題を重視せず、たくさんのことはまだ解決していません。今後は、師父のおっしゃった法理に従って行い、師父を安心させるようにしましょう。

 2008年8月28日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/8/22/184519.html

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