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「闘争心」を論ずる


文/山東大法弟子

(明慧日本)昨日五輪が終わり、父はテレビを見ながら「今回、わが中国人はついに無念を晴らした。外国人はもう私たちを馬鹿にできない!」と感激して家政婦に言い、家政婦もそばで頷いていました。私は心の中で反発し、彼らを非難しました。「あなたたちは毎日そういうふうに生きるのは疲れないですか? 全部中国共産党があなたたちに注ぎ込んだ『闘争哲学』ですよ。誰かと口論しなければ快感を得られないのですか? だからあなたたちは外国人に全然相手にされないのです。自分が勝ったと思えば愉快でたまらない、本当につまらないです」。続いてまた論争が始まった(これは日常茶飯事だ)。父はまだ中共の考えで話し、家に帰ってまだかっかとして釈然としていませんでした。

 少し静かになったとき、師父は修煉者が常人と矛盾する時、全部修煉者の間違いを語られたのを思い出しました。冷静になって内に向かって探すと、自分が「闘争心」をなくさないのは中共の「闘争哲学」が原因だったのです。長い間この「闘争心」を除去でないことに苦悩しました。このことはあらゆる方面に現れ、真相を伝えることと人を済度することに重大な影響を与えました。人に真相を伝える時、特に家人の場合は、相手に少し挑発する発言があったらすぐ口論になりました。刺激を与えるどんなことでも言い、「闘争心」で動揺し自分が人を救っていることを忘れ、相手を言い負かす事しか考えませんでした。結果は相手を理解させないのみならず、反対に誤解を深めました。今になっても父は真実を受け入れていません。しかし他人がそういう話をする時には父は怒らず、私が語ると悪口で挑発し、耐えず怒って言い争いになり、いつも不快に終わりました。毎回終わって後悔しましたが、「闘争心」を抑えられませんでした。

 それ以外この「闘争心」が中共の出来事、特に五輪の中に具現して、内心で何かが起こるのを期待していました。それは中共に対して修煉者のあるべき心ではなく、敵意と、「闘争心」ばかりでした。私が真相を伝えるとき自覚なしにいつも「災いがきた時、泣いても遅いよ」という気持ちがありました。同修と交流する時いつも相手を詰問し、自分の観点を主張し、批判や闘争の方法で言い表すことで満足しました。いつも話しているうちに口調が激しくなりました。同修は話す時、口調を柔らかくするように勧めてくれました。自分も気付いたので変えようと決め、また同修に自分の悪い口調を注意してくれるよう頼みました。けれど「闘争心」の根は除かれず、表面の態度は悪い時もよい時もありました。

 今日になって、自分の根が深い「闘争心」は中共の「闘争心」の毒素の悪習に染まった後遺症だったとわかりました。ずっと自分の内心では党文化がないと思っていたので『九評』も真剣に見ていませんでした。中共の毒素は入らない所はなく、小さい時からこの社会で生活し中共の毒素の侵入は避けられないのです。多かれ少なかれ、みんな「党文化」の影響を受けています。しかし私たちの慈悲で偉大な師父は一切の不正な要素を正す宇宙大法を現世に伝えられたのです。

 以前はなぜ慈悲心が私には出ないのかと不思議に思っていましたが、今は「闘争心」を除去していないからだと気付きました。師父は「闘争心」を除去しないと嫉妬心が出やすいと言われました。師父はまた悪人の嫉妬心は私の為、気の為、うぬぼれの為だと言われました。こんなに長く修煉しているのに本当に恥じるばかりです。「闘争心」は悪党の変異した遺伝子です。大法修煉者として一切の中共の毒素を少しも残さないようにすべきです。『九評』と『党文化を解体』を真剣に見ないといけません。もっと重要なのは、時々刻々大法に照らし、自分に隠れている「闘争心」の要素を徹底的に整理し、「闘争心」を除いて、慈悲で衆生を済度し、三つの事を行ない、師父の慈悲の済度に背かないようにしなければなりません。

  個人の悟り、レベルの限度で、同修は誤りを指摘し正してくだざい。

 2008年9月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/9/2/185125.html